「無限」の考察 ∞-∞=?

→朝日中学生ウイークリー2009.10.18号「本当の自由は数学にあると気づくかも」p.7 連載第43回

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医学探偵ジョン・スノウ―コレラとブロード・ストリートの井戸の謎

→朝日新聞2009.10.11「偉人の業績と19世紀風俗を丹念に

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匂いの人類学 鼻は知っている

→朝日新聞2009.10.4「料理からサブリミナルまで網羅

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宇宙がよろこぶ生命論

→朝日中学生ウイークリー2009.9.20号「生命起源に迫る人見て宇宙ニッコリ」p.6 連載第42回

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クロスロード・ネクスト—続:ゲームで学ぶリスク・コミュニケーション

→朝日新聞2009.9.13「大災害 あなたならどうする?

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最も遠い銀河

→朝日新聞2009.8.30「余熱にうずく人たちの思い重ねて

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SF小説がリアルになる 量子の新時代 (朝日新書 187)

→朝日中学生ウイークリー2009.8.16号「常識破りのふしぎな世界にようこそ」p.15 連載第41回

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危機来襲—鳥インフルエンザ・48日間の攻防

2005.12刊行。2003年に起こった京都のトリインフルエンザ危機に立ち向かった当事者たちの回想録。執筆者は主に行政の側で、知事の手記が半分近くを占め、副知事や農林水産部長、町長などが寄稿する。
実はその前年、SARSの感染者が日本に観光旅行に来たということで大騒ぎになった(奇跡的に感染者はゼロ)。そのときの経験から教訓を得ていたので迅速に行動できた、と知事は繰り返し語っている。ただしこのときの対応には外部からの批判もある。
行政側が執筆しているので、全般的に対策はうまくいった、封じ込めに成功した、という論調で書かれているのだが、一方ではマスコミ対応や風評被害への課題が残されたことが浮き彫りになっている。
またこのとき、最初に感染被害にあった浅田農産の会長夫妻は自殺しているわけで、この事実はあまりにも重い。本書を通して読むと、浅田農産への地元住民・行政担当者らの複雑な思いが透けて見えるようだ。

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ウイルスパニック ~新型インフルエンザ、大感染の恐怖~ (マイコミ新書)

2008.11刊行。著者は医療ジャーナリスト。
オビの「死者65万人のうちの一人にならないために!」は、さすがにヒドいだろうと思う。なんでこういう自己中心的な考え方をするかな、と憤慨しながら読み始めたのだが、本文はとてもまっとうでした。オビやタイトルでむやみに煽る編集部は反省してもらいたい。
きちんとした理解と取材に基づいた、端正な内容です。文章も整っているのでするすると読み進められます。

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糖脂質物語 (講談社学術文庫 562)

1981.9刊行。講談社学術文庫への書き下ろし?
スフィンゴシンの名前の由来はスフィンクスから来ているらしい、ということで、カバージャケットはスフィンクスと糖脂質。
山川先生の研究人生。味わい深くて勉強にもなりますが、後半はけっこう難しい記述が続きます。生化学を学んでいない読者だと、ちょっときついかも。
静岡薬科大学の松本亮教授一門が、最後から2ページ目に登場。

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インフルエンザ—新型ウイルスはいかに出現するか (PHP新書)

1998.2刊行。著者のひとりは医学雑誌の編集者で、この人が全体をリライトしたようだ。
何度目かの読み直し。概説的な書籍だが、ヘマグルチニンの機構については他の新書本には見られないほど詳しく書かれており、この部分はけっこう歯ごたえあり。私の父も一行だけ登場。
ソ連かぜはどこかの研究室のフリーザーから漏洩したものだという(いまとなっては広く受け入れられている)仮説を立てたときの話も、当時のフィンガープリントが載っていて興味深い。

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パンデミック・フルー襲来-これが新型インフルエンザの脅威だ- (扶桑社新書)

2009.3刊行。著者は産経新聞論説委員。本作は1985年の横浜を舞台にした小説。この時期に養鶏場でトリインフルエンザが発生し、しかもヒトへの感染が起こったら、という設定で、主人公は新聞記者。
まあ1985年という時代に、いまのインフルエンザの知識を組み込んでいるので、整合性のつかないところもある(たとえばH16が発見されたのはここ数年のことなので、この時代にH16という言葉が出てくるのはおかしい)。しかし本書の読みどころは、記者がどのように行動し、どうやって感染症問題に迫ってゆくのかという、その過程にある。予防衛生研究所の所長からコメントを取るために自宅前で夜回りするとか、なるほど、そうやって記者は記事を書くのだなあと興味深い。

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インフルエンザの世紀—「スペインかぜ」から「鳥インフルエンザ」まで (平凡社新書)

2005.2刊行。おもしろかった。編集者の協力を得たようだが文章も簡明で、読んでいて心地よい。175ページの締めの部分なんて、なかなかふつうの人には書けませんよ。加地先生の半生が丹念に綴られ、それがまさにインフルエンザ研究の歴史と重なっている。かぜ症候群の全般的な解説もうれしい。なんでもいいから早くインフルエンザ対策を教えろというようなせっかちな読者には薦めないが、新書を読む喜びを得たい人には広くお薦めしたい良書。
「かぜを絶滅させる薬を発見したらノーベル賞」のいいだしっぺは加地先生だったのか!

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Globes—地球儀の世界—宇宙から見た地球を体感する

→朝日中学生ウイークリー2009.7.19号「私たちが住む星を宇宙から眺めれば…」p.7 連載第40回

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インフルエンザ—人類最後の大疫病 (1978年)

1978.3邦訳刊行。W.I.B.Beveridge, Influenza: the last great plague, 原著1977刊行。
これは名著! いま読んでもまったく古びていません。著者はケンブリッジ大学の動物病理学の教授とのこと。
どこを読んでも洞察に溢れているが、大きな特徴は次の3つ。
19世紀以前のインフルエンザ流行について(孫引きの記述ではあるが)くわしく書かれている。歴史ミステリーの素材を読むようなおもしろさ。
ウマインフルエンザ、トリインフルエンザなど、動物のインフルエンザ事情に詳しい。特にウマについての情報は読み応えあり。
将来の課題や、未来に向けての問題提起が鋭い。
原著タイトルもかっこいい。インフルエンザの本の善し悪しは、この本を基準に考えなければならない。

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軽石—海底火山からのメッセージ

→朝日新聞2009.7.5「地球のダイナミックな活動と直結


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安全。でも、安心できない…—信頼をめぐる心理学 (ちくま新書)

本書のスタンスは、安全を信頼すると安心する、というもの。うーん、そうかも。いままでは安全=信頼×安心だと思っていた。
でもおもしろかった。リスクマネージメントでは、リスク管理に携わる人を人々が信頼することが大切だが、この分析が興味深い。これまでは「専門性の高い人」「意欲のある人」が信頼されやすいといわれていたが、実はこれはその事柄に対してさほど興味がない人にしかあてはまらない。その事柄に対して関心が高い人は、相手が自分と同じ意見かどうかで信頼性を判断しているという。自分はこんなに考えているんだから、専門家も同じことを考えるはずだというバイアスがかかるんだろうか。しかしこれ、いわれてみると、なるほどと思う。特定のコミュニティの中では、コミュニティ外の人を評価するとき、その人が誠実・専門的・意欲的かどうかより、自分と意見が同じかどうかで判断しているケースはあるよね。
著者の回答は、ならば「リスク管理者は顔を見せよう」というもの。人は感情に流されるので、それを逆手にとろうという戦略か。
なお伝統的解釈と、上述した新解釈のどちらが正しいかはまだ議論があるそう。状況によっても違うかもしれない。

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SARS いかに世界的流行を止められたか

財団法人結核予防会が2007.12に邦訳刊行。著者名:WHO西太平洋地域事務局、監修:押谷仁、訳:遠藤昌一、笠松美恵。図書館などには置いてあるようだが、一般には販売されていない。原著は2006刊行。

第1部 全体の展望
詳細な年表を含む。

第2部 各国・地域の概要
中国、香港、ベトナム、シンガポール、台湾、フィリピン、モンゴル、カナダ

第3部 アウトブレイク
スーパースプレッダーなどがどのようにして感染者を拡げていったかの詳細な考察。地図など具体的な資料も多い。

第4部 SARSの科学
臨床像、疫学など

第5部 将来

これはぜひとも手元に置いておきたい資料。
しかしそれ以上に、第5部の「SARSから何を学んだか」という章が胸に迫る。うまくいった点、うまくいかなかった点、それらがレビューされており、未来に向けての提言がある。
メディアはおおむね協力的であったという指摘や、メールやインターネットなど最新の情報通信が役立った(一方では風評ももたらしたが)という記述は興味深い。そしてその際、信頼できる情報をいかに集めて早期報告するか。国の疾病サーベイランスシステムが破壊状態にあるときのWHOの取り組みがどのようなものであり、何を目指すものなのか、本書でその一端に触れた気がする。

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リスクにあなたは騙される—「恐怖」を操る論理

→朝日新聞2009.6.28「バイアスにはまり込む心理を分析

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幻の馬幻の騎手 (文学のおくりもの 27)

1980刊行。3編の中篇を収録する原著から2編を収録。Old Mortality & Pale Horse, Pale Rider (1939)。
第一次大戦中のインフルエンザを描いた小説としては、おそらくもっとも有名なもの。終戦間際に主人公ミランダがインフルエンザに罹って見た幻覚が、切迫感を持って表現されている。コロラド州デンヴァーで著者が新聞記者をやっていたときの体験を元に書かれたものらしい。手が白い毒蜘蛛に見えるとか、希望もすべて遠ざかって残っているのは激しく燃える微粒子だけとか、クライマックス付近の文章力は圧倒的で、読んでいて息苦しくなる。中篇だが、なるほど深い余韻を残す作品だ。
ここで引用されている黒人霊歌を聴いてみたいんだが、どこかにないかな。

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世界を救った医師—SARSと闘い死んだカルロ・ウルバニの27日 (NHKスペシャルセレクション)

2004.7刊行。NHKスペシャルの書籍化で、執筆担当は虫明英樹。番組はソフト化されていないようだ。
刻々と状況が変化してゆく切迫した様子を非常にうまく文章化している。虫明はこういった文章がうまい。全体としてもよくまとまった好著で感情を揺さぶるが、一方ではもっと読み応えのある名著になり得たのではないかという思いもある。このあたり難しいところ。
ラストでWHOの進藤奈邦子と押谷仁のコメントがあり、ウルバニ医師の行為の両義性を読者に問いかけている。「第二のカルロは絶対に出してはいけない」という決意の後、今回の新型インフルエンザにおけるさまざまな結果を経て、いまどのような対策がよいと考えられているのか、知りたいところである。

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NHKスペシャル 最強ウイルス—新型インフルエンザの恐怖

2008.5刊行。2008.1.12,13放送のNHKスペシャル番組をもとに、大幅加筆して書籍化。
執筆担当者は虫明英樹、斎藤真貴、和泉田映。虫明氏はSARSの「カルロ・ウルバニ」本の執筆者でもある。
番組は第1夜がドラマ仕立て、第2夜がドキュメンタリー仕立てになっていて、いずれも社会に大きなインパクトを与えた。この放送を受けて、2008年度から厚生労働省には「新型インフルエンザ対策委員会」が設けられたとも記されている。その委員会で、押谷仁先生が「失望しました」と不満をぶちまけたことも、本書には記されている。

インドネシアでの医師たちの動きを追った第1章はなかなかの迫力。
ただ、一冊の本として見ると、やはり薄い感じがしてしまう。海外ではドキュメンタリー制作者が骨太な科学ノンフィクションをつくりあげるのと比較すると、どうしても見劣りしてしまうことも確か。いっそ書籍化はプロのノンフィクション作家にじっくり任せたほうがいいのではないかとも思う。
また、H5N1に焦点が当たっているため、切迫感はあるが結果的に現実を写し切れていない構成になってしまっている。本を作る難しさである。それをフォローするため、巻末で田代眞人、喜田宏、押谷仁の各氏から新たにコメントを取り、掲載してバランスを取っている。
海外の動向は生々しく伝えられており興味深いが、これらが一般的な状況なのか、あるいは先進的な取り組みなのか、そのへんはちょっとわからなかった。

パンデミックのときは病院に患者が殺到するため、ひとりひとりの患者に最善を尽くすのを諦め、より多くの患者を診る態勢に切り替える、という看護師の言葉が興味深い。若い看護師は痛みを訴える個々人の患者に万全の治療を施したいと考えがちだが、パンデミック時にはそういった考えは切り替えないといけないとのこと。

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リスクのモノサシ—安全・安心生活はありうるか (NHKブックス)

2006刊行。この人の著作を読むのは初めてだったが、波長が合ったのか、考え方も整理できて有益な一冊だった。その後の新刊も読んでみたい。
インフルエンザに関する論も多数掲載されている。それも含めて、いくつか感想を。

まずメディアの問題を論じた後、続いて第2章という早い部分で専門家の問題を扱っているのに好感を持った。専門家は客観性を重視してトレーニングされるあまり、自分の判断が客観的であるという過信に陥りやすいのではないか、と著者は投げかける。この素朴なリアリズムがあるために専門家はなかなか自説を曲げない。それがリスク評価の混乱に繋がるという論点。むしろ専門家はしっかりデータを見て、リスク評価をどんどん更新すべきだという意見は重要だと感じた。

第4章でリスク評価のモノサシを提案していて興味深いが、これはインフルエンザにふさわしい方法だろうか。
人は個々のリスク評価をうまく考えられないので、あらかじめがんのリスクはこれくらい、交通事故はこれくらい、火事、自然災害、落雷による死亡はこれくらい、と一覧表にしておいて、そこにいま知りたいリスク評価を組み込むことで、より客観視できるというもの。たとえばインフルエンザ最悪のシナリオで68万人が亡くなるとすると、10万人あたりの年間死亡者概数は500となり、これはがんの250より上。こうしてみると、こんなことはありえないとわかる、と著者はいう。
だがどうなんだろう。「起こるかどうかが問題ではなく、いつ起こるかが問題」とよくいわれるように、1918年レベルのパンデミックがいつかくることは間違いないだろう。しかしそれがいつかはわからない。そしてインフルエンザは毎年変化する。つまりリスクがどんどん変化してゆくのがインフルエンザの特徴だろう。
つまりインフルエンザ全体としてみるなら、大きな危険がある。しかし今年はどうか、来年はどうかと、毎年のインフルエンザ状況に絞って考えるなら、リスクは大きく変わるわけで、こういったモノサシにそのまま一律に当て嵌めることはできないのでは? それがインフルエンザのリスク評価のいちばん難しいところなのでは?

後半の、信頼の話は興味深かった。人は誠実さでその人を信頼するのではなく、その人が自分と同意見であるかどうかで信頼するという仮説。また、リスク情報は安心ではなくむしろ不安をもたらすという指摘。
このへんは近著でさらに深まっているのだろうか。発展の余地を残しつつ将来性を感じさせる研究途上の報告書として、興味深く読めた。

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僕秩プレミアム! (アフタヌーン新書 004)

→朝日新聞2009.6.21「ごく普通の毎日に気づきのタネが

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感染症とたたかう -インフルエンザとSARS- (岩波新書)

2003.12発行。著者の田代眞人氏は国立感染症研究所ウイルス第三部部長、岡田晴恵氏は国立感染症研究所ウイルス第三部研究員(刊行当時)。このふたりは共著も多い。岡田氏は単著で一般向けの感染症予防対策指南書などをたくさん執筆している。
本書の役割分担は明確ではないが、インフルエンザとSARSについて詳述された1、2、4章には「筆者(田代)」という表記がある。3章はインフルエンザワクチンの歴史的経緯を詳述。5章と6章で成人麻疹と風疹を扱う。重要な事項がよく整理されており、過去を踏まえた現状への考え方など筋道もよくわかる。刊行時までの情報に限られてはいるが、インフルエンザに限らず感染症を扱う新書のなかではまず読んでおきたい本のひとつだと思う。

ところでインフルエンザ本についてはいろいろAmazon.co.jpの読者レビュー欄を見ると、やはりタミフルの副作用がマスメディアで大きく取り上げられた時期には副作用問題に敏感なレビューが寄せられている。ワクチンについてもそういった社会的雰囲気という背景があるだろうと、個人的には感じている。研究者の問題意識と、ふつうの人の問題意識にはズレがある、という難しい課題もある。全体として評価するのか、それとも自分がインフルエンザに罹るのか・罹らないのか(自分が副作用の被害を受けるのか・受けないのか)という、科学的視点と個人的体験のせめぎ合いがあるためだろうか。このへんのことについてはもう少し類書を読みながら考え続けていきたい。

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インフルエンザとは何か (文庫クセジュ)

1997.10刊行、原著は1996刊行。著者はパストゥール研究所のインフルエンザウイルス研究者。
文庫クセジュで科学系の話題を読むときの居心地の悪さはちょっと独特だ。いかに自分が英語圏ズレしているか思い知らされる。冒頭の推薦文で、加地正郎先生らが流麗な訳文と誉めているが、英語圏の本の言い回しと微妙に異なる気がして、読んでいてむずむずする。気のせいかも。
インフルエンザは英語ではFluだが、フランス語ではla grippe(あなたを捕まえるもの)になるらしい。
著者は日本語版への序文で、日本のワクチン問題に釘を刺している。本文の内容はいたってふつう。うーん、いまとなっては読まなくていい本かもしれません。
どうでもいいが最終ページにインフルエンザを扱った小説の紹介があって、スティーヴン・キングのLe fleauとか書かれていると違和感ありまくり。1997年にはまだ邦訳が出ていなかったか。『ザ・スタンド』ですね。

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麻疹が流行する国で新型インフルエンザは防げるのか

2009.2刊行。著者は神戸大学大学院医学研究科教授。最上丈二のペンネームで『バイオテロと医師たち』の著作もある。アメリカや中国で医師として勤務経験があり、感染症に詳しい。
この著者に興味を持ったのは、新型インフルエンザの不安感がピークに達しようとしていた頃、「豚インフルについて、研修医の皆さんへ」という文章を公開していたのを読んだため。
・あなたが不安に思っているときは、それ以上に周りはもっと不安かも知れません。自分の不安は5秒間だけ棚上げにして、まずは周りの不安に対応してあげてください。
・今分かっていることでベストを尽くしてください。
・情報は一所懸命収集してください。でも、情報には「中腰」で対峙しましょう。
・自らの不安を否定する必要はありません。臆病なこともOKです。勇気とは恐怖を認識しつつ、その恐怖に震えおののきながら、それでも歯を食いしばってリスクと対峙する態度を言います。
・チームを大切にしてください。
という言葉は、研修医に向けた内容だが、多く一般人の心にも訴えかけるものだと感じた。

本書はインフルエンザに限らず、広く感染症における曖昧で難しい問題を、独り言のような口調ながら、よみやすく親しみやすい構成で語っている。海外では麻疹がほぼ根絶されている国もある、という話からこのタイトルが出てきている。
抗生剤をめぐる問題点が多くのページを割いて書かれている。
感染症という病気にはしばしば差別問題がついて回るという指摘はなるほどと思った。
医療は朝令暮改でいい、という指摘も重要な視点を含んでいると感じた。間違っていたとわかったらこれまでの診療方針を潔く捨てて新しい方針を採り入れようということ。「朝に言ったことでまちがいがあれば夕べには訂正する、それが柔らかい賢者の知恵というわけです」

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インフルエンザ Vol.10 No.2(2009.4) 〈鼎談〉インフルエンザ−最近の話題

メディカルレビュー社刊行。以前はAmazon.co.jpでも売っていたが、なぜか最近は扱っていない。bk1で購入できる。版元の広告ページはここ
雑誌だがISBNコードがついている。今号はISBN978-4-7792-0374-9

インフルエンザ専門の季刊誌。以前から愛読してます。
登場する研究者はおおむねいつも同じメンバーなのだが(特に河岡先生と西村先生がいいキャラで、最近はこのふたりの同人誌になりつつある?)、一般の報道とは違う視点の問題提起が勉強になる。
中外製薬の広告が多いのが特徴(^^)。ですのでタミフル関連の記事はバイアスがかかっていると考える人もいるかと思いますが、読んでみるとなるほどと思わされることも多い。

今号から1976年ブタインフルエンザ騒動を総括する西村先生の新連載が開始。
また押谷仁先生らが「世界各国における新型インフルエンザ対策の現状」という総説を寄稿しており、とても参考になる。
先進各国の対策ウェブサイトも紹介されているので、備忘録としてここに掲載しておこう。(最新情報ではないかもしれないことに注意)

(1)アメリカ
PandemicFlu.gov
対策実施プランの進展状況がモニタリングされている。こちら
ワクチン研究には1億ドルが供与されており、その成果はこちらに公開されている。
ワクチンの優先順位に関するガイダンスがこちらで作成されている。(PDF)
CDCから提供されているFluAid2.0FluSurge2.0

(2)イギリス
国家計画:A national framework for responding to an influenza pandemic(PDF)

(3)カナダ
国家計画:The Canadian Pandemic Influenza Plan for the Health Sector
ワクチン対策の構築はこちら

(4)オーストラリア
国家計画:Australian Health Management Plan for PANDEMIC INFLUENZA
対策方針はたぶんここ。雑誌の紹介URLとは違うので注意。(PDF)

(5)ニュージーランド
国家計画:New Zealand Influenza Pandemic Action Plan 2006

(6)EU
早期警告対応システム(EWRS; Early Warning and Response System)はこちら
健康危機情報システム(HEDIS; Health Emergency and Disease Information System)はこちら。医療情報システム(MedISys; Medical Intelligence Sytem)も。
でもログイン制だ。
新型インフルエンザ対策ワークショップ

(7)日本
国家計画:新型インフルエンザ対策行動計画

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新型インフルエンザ—世界がふるえる日

2006.9刊行。著者は長崎大学熱帯医学研究所教授で、アフリカ諸国やハイチなどの感染症事情に詳しいようだ。そのため他のインフルエンザ専門家とは違った視点で書かれており興味深い。冒頭には映画『WATARIDORI』からの引用がある。
インフルエンザに関する記述は一般的だが、むしろそれ以外の部分に独自性が光る。たとえば『突発出現ウイルス』を参照しながら「ウイルスも絶滅する」という視点を紹介したり、日本でかつて「インフルエンザの原因は細菌かウイルスか」という論争が北里研究所と東大伝染病研究所の間で繰り広げられたことに言及したり。
エピローグのシミュレーション小説もオリジナリティがある。アジアの某国で新型インフルエンザの発生があり、WHOは封じ込めの手を打つが徐々に感染エリアは拡大してゆき、ついに世界に広がる。その後の淡々とした描写がすばらしい。世界中で1億2200万人が死亡し、そのうち1億2000万人は貧しい国に暮らす人々だった。パンデミック収束後に国連が報告書をまとめる。そこには多くの反省が綴られている。しかし一連の封じ込め対策は次のように評価されていた。
「初期の封じ込めによって、インフルエンザの世界的流行が二カ月遅延し、結果として2000万人以上の生命が救われた」

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インフルエンザ—新型ウイルスの脅威

1999.12刊行。著者は現在、神奈川県警友会けいゆう病院小児科部長で、今月号の「文藝春秋」にも登場している。ワクチン、タミフルに詳しい。三田村敬子氏は弟子。
10年前の本なので、まだタミフルは発売前。アマンタジンについて多くのページが割かれている。タミフルは副作用がないとはっきり書いており、いまとなってはびっくりする読者も多いだろうが、当時は本当に専門家もそう思って疑わなかった。
このように、専門家でさえ見込み違いや思い込み、リスク評価の誤りがある。そのことがインフルエンザ問題の本質のひとつだろう。本書ではワクチン関係の記述が読み応えがある。日本では90年代後半にほとんど学校での集団ワクチン接種がおこなわれなくなってしまった。ワクチン効果が疑問視されたため。しかし著者は海外の学会等でそのことを向こうの研究者に話すたびに驚かれ、ワクチンに効果がないという科学的根拠は何かと問い質されたという。そのため改めてワクチンの効果を日本で解析したところ、効果ありとの結果が出た。当時は研究者たちも、風聞に惑わされ、きちんと検証もせず雰囲気に流されていたのだと改めて知ることになる。
インフルエンザとはもともとインフルエンス(影響)という言葉が語源である。インフルエンザを語ることは、人間の思い込みや影響、バイアスの歴史を語ることでもある。
追記:
なお、「心理学的には「第三者効果」として知られていますが、「私はマス・メディアの影響を受けないが、他の人(第三者)は影響を受けている」と考えることは、その人が自尊心を高めるために行っている行動と解釈されています。」(吉川肇子 慶応大学商学部准教授)との指摘にも充分に注意しておきたい。こちらを参照。

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単純な脳、複雑な「私」

→朝日新聞2009.6.7「高校生にわくわくする仮説を提示

池谷さんの本は、よい編集スタッフがついているのだろうと思わせるものが多く、実はとてもうらやましい。
よい科学書をつくるには、よい編集スタッフに恵まれることが大切だとつくづく思う。
こっちはテープ起こしから写真の手配まで自分でやっていて、もうそろそろ体力が続かなくなってきた。

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インフルエンザ感染爆発—見えざる敵=ウイルスに挑む (ノンフィクション知られざる世界)

原題はPurple Death、2000刊行。邦訳は2005.12刊行。
著者はサイエンスライターで、同じ叢書から『アイスマン』の翻訳が出ている。訳者の西村秀一先生は仙台医療センターウイルスセンター長。あの『史上最悪のインフルエンザ』の次に彼が手掛けた翻訳がこれ。その後、西村さんは東洋文庫から『流行性感冒』の復刻を後押しした。
1918年のスペイン・インフルエンザと、そのウイルスを永久凍土から見つけ出そうとする人たちの話を、非常にわかりやすく、コンパクトにまとめた良書。刊行が2000年なので、まだ遺伝子情報は一部しか解析されていない状態で本は終わるが、その後2005年に全遺伝子情報が解読完了したことはご存じの通り。その話はいくつかの一般向け科学書でも紹介されている。
これは子ども向けの本なので、イラストや写真が多いが、内容は大人が読んでも勉強になる。特に、どうやってワクチンをつくるのか、ウイルスのドリフトとシフトの違いなどは、知らない人も多いのでは。日本版では図表を新たに加えて、そういった基本をしっかり説明しているのが嬉しい。巻末には訳者による解説もあり、わかりやすい。

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ダーウィン先生地球航海記

すみません、白状します。実は「ビーグル号航海記」、積ん読でした。
で、今年はダーウィン生誕200周年、『種の起源』刊行150周年。日経サイエンスで渡辺政隆さんが荒俣宏訳を薦めていたので、ええ、けっこうな値段で古書を求めました。
しかし読んでびっくり、めっちゃくちゃおもしろい! どうしてこれが品切れなの? 世の中間違っとる! ダーウィン先生の日誌に荒俣先生が随時コメントを挟むという構成で、これが見事な掛け合いになっている。内田春菊のイラストに加え、荒俣先生があちこちから持ってきた博物学の挿画が彩りを添える。
これって超訳なのか、忠実な翻訳なのか、それがまるでわからない。無知ですみません。うーむ、すぐに岩波文庫版を読んでみなくては。どこへしまったっけかなあ。とにかく超おすすめです。

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新型インフルエンザから家族を守る18の方法 (青春新書INTELLIGENCE 215)

2008.12刊行。著者は京都産業大学鳥インフルエンザ研究センター長。北大獣医学出身で、喜田宏先生、河岡義裕先生、伊藤壽啓先生らと同窓ですね。
奥付には編著者・大槻公一とあるので、もしかしたら語り下ろしや講演などを新書向けに編集者がまとめた本なのかもしれない。
前半はインフルエンザパンデミックに関する一般的な話。やはり後半の鳥インフルエンザ関連の方が、話としても具体性に富み、切実で、言葉に重みがある。タイトルの「18の方法」は、最後に箇条書きで提示される。途中、馬インフルエンザの話が出てくるのがちょっと特徴的か。私の父の名が一瞬出ていました。
ラストに、パンデミック後のシミュレーション(?)が登場するのは興味深い。メディアに総理と専門家が登場し、今後2週間籠城せよと告げると、人々はおおむねそれに従う。どうしても外出が必要な人は抗ウイルスマスクをつける。これによって時間を稼ぎ、日本はワクチン製造するという筋立て。

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厚生労働省崩壊-「天然痘テロ」に日本が襲われる日

2009.3刊行。著者は医師・厚生労働省医系技官。
何かと話題の本。
本筋と関係ないような、しかしありそうな感想をひとつだけ。
「もし、天然痘テロが日本で起こったら?」というシミュレーション小説が途中に出てくるのだけれど、こういう構成の本って多いんだなあと改めて思った。しかしパンデミックが起こるまで(つまり役人その他の不手際などにより事態が悪化して収拾がつかなくなるまで)は書かれるのに、事態が収束するところのシミュレーション小説が挿入された本は少ない。どんな状況だろうといずれ事態は収束すると思われるが、そこをシミュレートする方がいっそう役立つのではなかろうか。怖れていたパンデミックになってしまって主人公は呆然、で終わってもらっては、読んでいるこちらも困る。
個人のエピソードが一般に共有されることで不安や恐怖心が広まるのだとしたら、この手の本ではむしろ収束に至るまでの個人エピソードをヴィヴィッドに描く方が、シミュレーション小説としての意義も高まり、重要と思われる。(ただし書き手も、より想像力が必要だろう)

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インフルエンザはなぜ流行するのか (One point science)

邦訳1983.12刊行。現題や原著刊行年は未記載。著者はマーティン・M・カプランとロバート・G・ウェブスター。ウェブスターはトリインフルエンザの先駆的研究者で、喜田宏さんや河岡義裕さんの師匠筋。そして訳者はなんとセンダイウイルスの石田名香雄!
ワンポイントサイエンスという小冊子シリーズの一冊らしいが、古書として愛でたくなる本(当時の定価は380円!)。中のイラストは二色刷で、インフルエンザウイルスの模式図なんて芸術的な美しさです。内容もすばらしい。充分に現代でも通用します。ブタ、ウマ、トリのウイルス研究の発展がよく分かる。
「これからも、インフルエンザが大流行することは、きっとあるだろう。しかし、インフルエンザの病状や生態学についてかなりよくわかってきたので、これからはもう、以前のような猛威をふるうことは、まずないと思われる」という結びの段落が実に味わい深い。

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新型インフルエンザ対策におけるリスクの管理とコミュニケーション

2007.11刊行。監修者の岡部信彦は国立感染症研究所感染症情報センター長、岩崎恵美子は仙台市副市長(前厚生労働省仙台検疫所所長)。
以下、メモ。
第1章の「リスクマネジメントとリスクコミュニケーション」の部分をもっと詳しく知りたかった。
「パニック防止で最も重要なことは、情報を発信する県や市当局が常日頃、市民から絶対的な信頼を獲得しておくことである」とあったが、具体的にはどうすればいいのだろう。
第4章はフェーズ4におけるインフルエンザ対策の机上演習キット。
今回の新型インフルエンザ騒ぎは、本書記載のリスクコミュニケーションに照らしてどのくらいうまくいき、どのへんが想定外だったんだろうか。

ちなみに執筆者は違うがこういうのも出ていて、わかりやすい。
【研究リポート】少しでも混乱を避けるために=自治体向けに健康危機管理のコミュニケーションマニュアル作成 吉川肇子 慶応大学商学部准教授
【資料】健康危機管理におけるクライシスコミュニケーションマニュアル(pdf 2.9M)
【資料】健康危機管理におけるクライシスコミュニケーションのクイックガイド(pdf 2.1M)

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インフルエンザ危機(クライシス)

2005.10刊行。東大医科研感染症国際研究センター長の河岡さんに、ライターの浅野恵子氏が聞き書きしてまとめたもの。しかし文章はきびきびとして読みやすく、河岡さん自身が書いたと思っても特に違和感はない出来。
「研究職の面白さ、醍醐味をこれから職業を選ぼうとしている若い人たちに分かってほしかった」「本書を読んで1人でもウイルス学を目指してくれる人が出てきてくれると大変うれしい」とあとがきにあるように、大半は河岡さんの研究人生の回想録と、そこから導き出される提言。トリインフルエンザの最前線で研究を続けてきた情熱と切れ味の鋭さがよくわかる。研究内容も細かいことまでは書かず、しかし短い言葉でディテールを押さえており、臨場感もある。ワクチンとタミフルのあたりは、河岡さんの科学者としての信念ですかね。
「新型インフルエンザから家族を守るには」というタイプの本ではないが、科学書としておもしろい。

→朝日中学生ウイークリー2009.6.21号「誇りと理性を手にウイルス研究に奔走」p.7 連載第39回

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パンデミック—感染爆発から生き残るために

たくさん出ているインフルエンザ関連の書籍をまとめて読んでみることにした。今後、再読を含めて読了メモを載せていくかも。
まずはこれをさくっと読了。著者はノンフィクション作家(私と同い年)。本書の取材先は主に岩﨑惠美子氏と濱田篤郎氏。2009.2発行。
日本相撲協会は会員とその家族にインフルエンザワクチンを接種させている、そのためかこれまでインフルエンザで休場した力士はいない、という豆知識にへぇボタン。

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なぜあの人はあやまちを認めないのか

読後、書評委員会で手放した本。他の委員が書評するかもしれません。

内容はタイトル通り。心の不協和音を自己正当化する心理について、さまざまな事例をもとに検討している。
ただ、ここから先の研究がもっと読みたかった、ということもあり、少し流し読みしてしまった。

この手の本では、たいてい「私たちはあやまちを認める勇気が必要だ」という結論で終わるのだけれど、現実問題としてそこで終わることはできないのでは。たとえばどうだろう、誰かが過ちをおかしているとき、その人ひとりだけが間違っているわけではないのではなかろうか。
こういった本で検証されるのは、政治家が失言したとか、冤罪が起こったとか、結婚の失敗を認めないとか、高価な買い物の失敗を認めたがらないとか、そういう事例なのだけれど、日常的に考えてみると特にコミュニケーションのなかでは、ひとりだけが過ちを犯すということばかりでもないように思うのだ。過ちというのは突然生まれるのではなくて、たとえば結婚生活なら互いの言動が積み重なってのっぴきならない状況になってゆく。たとえば多文化社会では推測や思い込みの違いがそういう状況をつくり出してゆく。そういうとき、どちらかだけが謝罪すればいいというものではなくなってゆく。
たとえきっかけはひとりの発した一言であったとしても、その人だけでなく、その人と議論した人もある程度は過ちをおかしていたかもしれない。その人を糾弾した人、その人に賛成した人、傍観していた人、そういった人たちも部分的には過ちをおかしていたかもしれない。でもひとりだけが勇気を振り絞って己の過ちを認めたら、結局認めたその人だけが、日本では社会的に大打撃を被ることになりはしないか。
彼個人が過ちを認めることで、なるほど何らかの事象は解決されるかもしれない。だが彼はその後、さんざん罵倒されて生きなければならない。そのリスクを背負って彼は勇気を振り絞り続けなければならない。なぜ彼だけがそんなリスクを背負わなければならないのか。他の人にも勇気の分担があってしかるべきなのに。この勇気は賞賛されることが少ない、現代日本社会ではベネフィットの少ない勇気なのだろう。
ふつうわれわれは過ちを認める勇気と、その後の社会的ベネフィットを秤にかけて、ベネフィットの多いほうを選択しているのではないか。関係者双方が同時に勇気を持って過ちを認めるなんてことはまずありえない。そのことをどう考えればいいのだろうか。
この問題は『境界知のダイナミズム』を書いていたときからずっと考えているのだけれど、うまい答が見つからない。ひとつの考え方は、誰かが過ちを認めたら、その勇気を周囲の人が認め、讃える、そういう心理的な環境をつくり出すことだが、難しい。
そういうところまで踏み込んで考察してほしかったなと読了して思った。うーん、このような本の感想文を書くことは、もしかしたら自分の思いとはまったく別に、穿った見方で読まれてしまうかもしれないと悩み、とても緊張する。ただ、実はこの本のあと、ダン・ガードナーの快著『リスクにあなたは騙される 恐怖を操る心理』を読み、ここでの自分の疑問や問題意識とつながっていることを発見したのだった。そうそう、こういうふうに自分は考えていきたいのだと思った。

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光るクラゲがノーベル賞をとった理由—蛍光タンパク質GFPの発見物語

→朝日中学生ウイークリー2009.5.17号「蛍光物質が照らし出す 研究者がめざす道」p.7 連載第38回

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ナンパを科学する ヒトのふたつの性戦略

この著者、自分でナンパにあうことが多いため、このような研究を始めたのだそうだ。
で、そんなことをいったら男性読者はこの著者の名前を検索して写真を探すと思うのだけど……。

副題にある「ふたつの性戦略」の通り、ヒトには長期の性戦略と短期の性戦略があり、ナンパによく会う女性は短期的配偶戦略への指向性が高い傾向にあるという。短期型なので恋愛も長続きしない。
そういう人は周囲の期待にあわせた感情表出がうまいのだそうだ。セルフ・リファレンスの傾向が強い、つまり自分の写真うつりや見られ方などを気にするタイプ。だから芸能人には離婚話が多いのかも、といった話が出てくる。

著者は長谷川寿一さんの門下生。本書は女性の進化心理学者が書いた一般向け科学本であるわけだが、過去の教訓を活かして(?)、正確さを第一に考えたまっとうな文章。進化心理学の概説パートなどはむしろよくできている。ただ、書きぶりがまっとうであるため、残念なことにあまり心が躍らないのだ……。うーん、ポピュラーサイエンス本のむずかしさよ。
ご本人の研究は端緒についたばかりといった感じ。研究が進んであと1、2冊書けば、もっと面白い書き手になっていそうな気がする。
ただ、性戦略の話は人にウケるので、この本は夕刊フジの連載で紹介してみました。

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私が何を忘れたか、思い出せない—消されゆく記憶

発売から2カ月を過ぎて、朝日新聞の書評レギュレーションに引っ掛かり放出してしまった本。最近、こういうのが多くて申し訳ない。

私はこの本のよい読者ではない。全体的に文章がだらだらとして、すんなり頭に入ってこなかった。多くの部分はとばし読みしてしまった。
父親がアルツハイマーになったため自分もそうなるのではと考えた女性ジャーナリストが、さまざまな方法で自分の脳を検査してもらう……最初の方を読んでいるとありがちな体験型科学ジャーナリズムと思え、読み進める意欲もあまり湧かなかった。しかし後半まで来て、待てよ、と思い直すことになった。
この作者はアルツハイマーを勉強するために、たくさんの一般向け科学書を読んでいる。巻末の参考文献にはふつうなら学術論文を列挙するところだが、やはり一般向けの科学書を挙げている。しかしそれが見事に一般向け脳科学本のガイドになっていて、どれがよい本なのかをきちんと示すことになっている。
おもしろいのは、この著者がアルツハイマーについて学ぶために、こういった一般向け科学書の著者に直接会いに行き、話を聞き出していることだ。例えば次のような人が出てくる。

ダニエル・エイメン 『元気な脳をとりもどす』NHK出版
エルコノン・ゴールドバーグ 『老いて賢くなる脳』NHK出版
シンシア・グリーン 『脳を鍛える!—ボケないための8つの習慣』山と溪谷社
ゲイリー・スモール 『3歩あるくとすべて忘れてしまうあなたへ』文藝春秋
トニー・ブザン 『ザ・マインドマップ』ダイヤモンド社

いずれもベストセラーを放った人たちだ。日本でいうなら、茂木健一郎や池谷裕二、川島隆太、苫米地英人、篠原菊紀といった人たちを渡り歩くようなものか。もちろん、ひとりひとりのスタンスや科学者としての業績、アウトリーチのポリシーなどは異なっている。しかし著者はそういった人たちに会いにゆき、実際にセミナーや試験に参加し、アルツハイマーと彼らの研究や主張との関係を自分なりに考えようとしている。そこはとても興味深い。つまり本書は現在の脳ブームの中で、ベストセラーを放つ人たちとはどういう人であり、彼らが科学的にどういう人たちなのかを結果的に炙り出す本になっている。
日本でこういう本が出ることはあるだろうか。そんなことを考えながら読了した一冊であった。

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サイのクララの大旅行—幻獣、18世紀ヨーロッパを行く

→朝日中学生ウイークリー2009.4.19号「初めて見るサイに画家も貴族も魅了された」p.7 連載第37回

 *連載、4年目に入りました!

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ジュニアサイエンス ダーウィンと進化論 -その生涯と思想をたどる-

→朝日中学生ウイークリー2009.3.15号「進化学者の人生をたぐって新しい世界へ」p.7 連載第36回

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大聖堂—果てしなき世界

→朝日新聞2009.5.10「長大な歴史ロマン 広がる人間の想い

おそらくあちこちの書評では「前作を読まなくても充分面白いから読んでみて」などと生ぬるく紹介されているであろうが、あえて声を大にしていう、どちらも読んだことがないなら前作の『大聖堂』から読みなさい! ぜったい後悔しないから。
しかも前作のストーリーを知って今回の続編を読めば、似たようなシチュエーションが次々と現れることに気づくはず。しかしフォレットはこちらの予想を巧みにかわしながら新たな展開を送り込んでくるので、このあたりの演出は心憎いばかり。
前作の翻訳は矢野浩三郎、今作は戸田裕之。矢野訳はときどき「口吻(くちぶり)」などアクセントの効いた単語を挿入することで物語を引き締めていたが、今回の戸田訳はそのような仕掛けもせず、わかりやすい文章に徹している。好みの問題だが、私は前作の矢野訳のほうが面白かったかな。
もうひとつ、これは朝日新聞の書評欄にはとても書けないけれど、やっぱりケン・フォレットはエロいね。『針の眼』のころから敵国スパイと孤島の人妻などというエロさ全開だったフォレットだが、今回のシチュエーションも相手は修道女で相当エロい。なんというか中学生や爺いが喜びそうな王道のエロさである。

 *書評委員、2年目に入りました。

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すごい空の見つけかた

→朝日新聞2009.3.22「空を見上げたくなる写真集」p.@@

【追記】
現在、南極の昭和基地で第50次南極観測越冬隊員としてご活躍の武田康男さんからメールをいただきました。南極のすばらしい自然を発信する武田さんご自身のブログをご案内いただきましたので、こちらでも紹介いたします。
南極の自然

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森博嗣の半熟セミナ 博士、質問があります!

→朝日中学生ウイークリー2009.2.15号「やわらかい科学問答で君も博士の卵に」p.7 連載第35回

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ハダカデバネズミ—女王・兵隊・ふとん係 (岩波科学ライブラリー 生きもの)

→朝日中学生ウイークリー2009.1.18号「ヘンテコネズミがくれた研究の面白さ」p.9 連載第34回

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戸塚教授の「科学入門」 E=mc2 は美しい!

→朝日中学生ウイークリー2008.12.21号「実験物理学者がのこしたメッセージ」p.17 連載第33回

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人を動かす秘密のことば

→朝日中学生ウイークリー2008.11.16号「学びたい コミュニケーションの魔法」p.17 連載第32回

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約束の地

→朝日新聞2009.3.1「大自然舞台に野生動物と人の命描く」p.@@

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仮想儀礼

→朝日新聞2009.2.15「暴走する現代を新興宗教で描く傑作」p.@@

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サブリミナル・インパクト—情動と潜在認知の現代 (ちくま新書)

→朝日新聞2009.2.8「無意識の認知が社会のうねりを生む」p.@@

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ブラックホールで死んでみる—タイソン博士の説き語り宇宙論

→朝日新聞2009.1.25「豊穣な科学の旅に誘う宇宙論」p.@@

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神獣聖戦 Perfect Edition

→朝日新聞2009.1.18「日本SFの生命力が炸裂する傑作」p.@@

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プルーストとイカ—読書は脳をどのように変えるのか?

→朝日新聞2009.1.4「脳科学で「読書」の謎に挑む」p.@@

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旧暦びより—二十四の季節あそび

日本でむかし使われていた太陰太陽暦の特徴である「二十四節気」(にじゅうしせっき)を軸に、立春から大寒まで、四季おりおりの気候や行事などをオールカラーでコンパクトに紹介するささやかな本。
京都放送というところがつくっているので、京都の町で感じ取れる季節のサインや催事が中心になっています。東北だとなかなかこのようにことばと気候が重なりません。京都という場所だからこそ、旧暦のことばが確かに結びついていて、初めてこの手の本では季節感を鮮やかに感じ取ることができました。
長い時間をかけて私たちの祖先がことばと身体を季節に調和させつつ生きてきたことがわかります。

一年の初めに手に取るのにふさわしい一冊。

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時速250kmのシャトルが見える


「朝日中学生ウイークリー」2008.10.19号 連載第31回

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クマムシを飼うには—博物学から始めるクマムシ研究


「朝日中学生ウイークリー」2008.9.21号 連載第30回

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世界一高い木

「朝日中学生ウイークリー」2008.8.17号 連載第29回

 朝日新聞の読書欄にはいくつかの制約がある。
 奥付記載の発行日から2カ月以上経過した書籍は原則として取り上げない。
 評者がすでに他の媒体で書評してしまった本は取り上げない。

 ということで、朝日中学生ウイークリーで取り上げてしまったため、朝日新聞で書評できなかった本。ほとんど話題になっていませんが、リチャード・プレストンの著作としては『ホット・ゾーン』以来の大傑作だと思います。プレストン自身のウェブサイトを見ても、数年前から彼がツリークライミングにのめりこんでいたことは明らか。お薦めの一冊です。

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書評委員お薦め「今年の3点」

→朝日新聞2008.12.21, p.13「書評委員お薦め「今年の3点」
(1)聖者は口を閉ざす [著]リチャード・プライス [訳]白石朗
(2)世界一高い木 [著]リチャード・プレストン [訳]渡会圭子
(3)木曜日だった男 一つの悪夢 [著]G・K・チェスタトン [訳]南條竹則

 来年もよろしくお願いします!

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文庫版 Mr.マリックはじめての超魔術—プロのワザ大公開

 仕事の息抜きに買ってみたが、すっごくよくできた本です。Mr.マリックすごい、と改めて思った次第。
 最近あまりTVを見ていなかったけれど、「超魔術」というのは、ふだんから見慣れた日用品を使ってイリュージョンをつくり出すMr.マリック独自の考え方。一般向けのマジックの本を買って練習しようと思っても、意外とタネを用意するのが面倒だったりするものだが、正真正銘、この本に出てくる超魔術は日用品だけでできる。そして大切なのは演出。マジックをやると必ず「タネを教えて」といわれるが、そこは「ハンドパワーです」の一言で押し通す。ただし簡単なマジックだけではなくて、コインマトリックスなど実はかなりの練習を必要とするものもレパートリーに組み入れられており、けっこう奥が深い。Mr.マリックの精髄が文庫本に凝縮されている感じ。
 しかも彼自身があとがきで書いているのだが、本のつくりが実にうまい。ちゃんとオスカープロモーションの女性モデルを使って演技させ、図解は第一人者のカズ・タカヤマ、そしてページレイアウトもしっかり考え抜かれている。さすが、演出を第一にする「超魔術」の面目躍如。
 いや、本当に超おすすめの一冊。エンターテインメントってこういうものだよね。

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麦酒アンタッチャブル

→朝日新聞2008.11.16「映画なぞる大胆トリックの会心作」p.@@

 ちょっと意識してエンタメ書評っぽいいいまわしも組み込んでみました。
 500字なのであらすじ紹介だけで規定文字数の半分を使ってしまうなあ。もうちょっと突っ込んで書きたかった。
 とくに今回読んで思ったのだが、山之口さんの役人小説の特徴は、役人という一見センス・オブ・ワンダーとは無縁の人々や彼らを取り巻くシステムそのものに大いなるワンダーがあることを明示できる点にあると思う。しかも文章はあくまでシステム論を直裁的には書かず、読者の思考を誘導する手掛かりに留まっているところもすばらしい。
 ちなみに山之口さんの書評記事はいつも絶品です。

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知りすぎた男—ホーン・フィッシャーの事件簿 (論創海外ミステリ (81))

→朝日新聞2008.11.9「現代につながるリアルなお伽噺」p.@@

「ケ・セラ・セラ」の歌でも有名なヒッチコックの映画『知りすぎていた男』(1955)は、チェスタトンのこの作品からタイトルだけを借りたサスペンス。

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Paper Airplane 2009 Calendar: Fold a Day (Brown Trout) (カレンダー)

大学の航空宇宙工学の教授に教えてもらいました。めちゃくちゃ楽しい! 365日、毎日1機ずつ折り紙飛行機がつくれます。それぞれの紙には折り方に応じてあらかじめ模様がついているので、折り上げるとちょうど格好よくエンブレムやストライプが映えるしくみ。
実際、よく飛びます。来年のカレンダーはこれで決まり。

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朝日新聞・秋の読書特集「文学を超えた科学書全集」

→朝日新聞2008.10.27「文学を超えた科学書全集」p.@@

架空の全集を編む、という企画記事のひとつ。1998年から2007年まで、原著刊行順に各年1冊ずつ選んだ。「全集」なので、科学書好きの人なら半分くらいは既読程度のバランスが望ましい。
この選定の縛りだけでもいろいろ遊べます。ぜひお試し下さい。

第1巻 シルヴィア・ナサー 『ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡』 新潮社 02/3 【amazon
第2巻 ブライアン・グリーン 『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』 草思社 01/12 【amazon
第3巻 マルコム・グラッドウェル 『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』 SB文庫 07/6 【amazon
第4巻 カール・ジンマー 『「進化」大全 ダーウィン思想:史上最大の科学革命』 光文社 04/11 【amazon
第5巻 リチャード・モラン 『処刑電流 エジソン、電流戦争と電気椅子の発明』 みすず書房 04/9 【amazon
第6巻 ジェームス・D.ワトソン、アンドリュー・ペリー 『DNA 上 二重らせんの発見からヒトゲノム計画まで』 講談社ブルーバックス 05/3 【amazon
第6巻 ジェームス・D.ワトソン、アンドリュー・ペリー 『DNA 下 ゲノム解読から遺伝病、人類の進化まで』 講談社ブルーバックス 05/3 【amazon
第7巻 エマニュエル・ダーマン 『物理学者、ウォール街を往く。 クオンツへの転進』 東洋経済新報社 05/12 【amazon
第8巻 クリスティアン・ド・デューブ 『進化の特異事象 あなたが生まれるまでに通った関所』 一灯舎 07/1 【amazon
第9巻 リー・M.シルヴァー 『人類最後のタブー バイオテクノロジーが直面する生命倫理とは』 日本放送出版協会 07/3 【amazon
第10巻 池上高志 『動きが生命をつくる 生命と意識への構成論的アプローチ』 青土社 07/9 【amazon

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われらが歌う時

→朝日新聞2008.10.12「濃密に積み重ねて「今」を生きる」p.@@

 自然科学系の人にこそお薦めしたいリチャード・パワーズ。
 書評では濃密などと書きましたが、実際は邦訳されたパワーズの中でいちばん読みやすいので、この本からチャレンジしてみるのがいいと思います。神経科学を扱ったThe Echo Makerの邦訳出版も楽しみ。

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ちびの聖者 (シムノン本格小説選)

→朝日新聞2008.9.28「作家の息遣いと体温に同化できる」pp.13

 シムノンのメグレ警視ものは全作品が翻訳されているはずだが、膨大な自叙伝は日本では書籍になっていないし、ノンシリーズの長篇もまだまだ未訳がたくさんある。この河出書房新社のシリーズ、地道にこれからも続いてほしい。
 書評原稿では字数の関係もあってあまり突っ込んだ話はできなかったけれど、シムノンのノンシリーズ長篇でも『証人たち』は後期のメグレものにかなり近い呼吸で、一日でどこまでシムノンが書いたかはっきりわかるような構成だが、この『ちびの聖者』とか『ビセートルの環』などはもうちょっと物語そのものの呼吸で生きている感じがする。ときどき破調があるのだ。そこが緊張をもたらしていて、心地よい。
 メグレ警視もののテレビドラマはなぜか退屈だが、ノンシリーズの小説は映画によく合う。シムノン原作の映画に秀作が多い理由を、どこかでちゃんと考えてみたい気もする。

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未来の記憶のつくり方—脳をパワーアップする発想法 (DOJIN選書 19)/脳でシナジーする科学と社会—回転寿司、パチンコ、そしてキャラクター論まで (東京理科大学・坊っちゃん選書)

 パチンコの「海物語」がなぜヒットしたかを脳科学的に解明したことで有名な篠原菊紀さんの本。最近、多チャンネル近赤外線分光法装置が手軽に使えるようになったことで、体を拘束せずに脳の活動を計測できるようになってきた。篠原教授もこの装置を存分に使って、いろいろおもしろい(本人曰く、しょうもない)実験をやっている。
 二冊とも似たような内容だけれど、本としてだんぜんまとまりがあるのは化学同人のほう。「未来の記憶」というのは「解決志向ブリーフセラピー」で問いかけられる未来の自分の記憶で、ここに自分の視点を同調させてゆくことで短期間で心の悩みを解決してゆこうとするセラピーのやり方。実はこのやり方が前頭葉の脳トレと密接な関係がある、という感じで話が進んでいきます。前頭葉の活性化と鎮静化のバランスが大切、という考え方には共感を覚える。いい小説というのも実際はそういう作用があるよね。篠原さんの語り口も、庶民的で親しみやすい。なるほど、こんなふうに話を組み立てて話すと講演会は成功するよなあ、と勉強にもなりました。
 ここで書かれていることは、ロボット・コミュニケーションの研究にも極めて重要なことだと思う。ロボットの前頭葉を鍛えるような研究が、これからは大切じゃないかなと感じた次第。

 ところで、この2冊の本には、発想のクセ(パッションの方向)ということで、クロニンガーの分類に基づいて「新奇探索傾向」「損害回避傾向」「報酬依存傾向」の話が出てくる。それぞれの脳のクセを利用して、ひらめきを促進しようということで、各傾向へのアドバイスも書かれている。「新奇探索傾向」の人は異なる考え方に囲まれやすいから「同じだ」「似ている」というキーワードを使うよう努力しよう、「損害回避傾向」の人は他者と異なる発想をすることが苦手だが集団内のルールをつくることは得意、だから「これはあれと違う」をキーワードにして修正的なひらめきを得よう、「報酬依存傾向」の人は甘えん坊タイプだから意識して「世のため人のため」と口にしてみよう、というアドバイスは、なるほどとても効果的だと思った。私はおそらく典型的な「新奇探索傾向」なので、〈境界知〉などということをいい出したわけだね。物語と科学は似ている、などという(一部の人にとってはわけのわからない)主張をするのも自分を拡げたいからだろう。これらそれぞれの傾向に有効な〈境界知〉のあり方とはどのようなものだろうか。そうやって考えてゆくと、〈境界知〉に関する発言もこれからはもっと説得力を持てるような気がした。

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20世紀の幽霊たち/ハートシェイプト・ボックス

→朝日新聞2008.9.21「巨匠の父を超える短編ホラーの傑作」p.12

『20世紀の幽霊たち』はめちゃくちゃ素晴らしい。
『ハートシェイプト・ボックス』は、うーん、凡庸でした。現時点ではジョー・ヒルの才能は短編に特化されているらしい。

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カリスマ手品師(マジシャン)に学ぶ 超一流の心理術

 マジックの一分野にメンタルマジックというのがあって、人の知覚力や認識力を巧みに操るものがある。そういう一分野に特化しないまでも、マジシャンというのは聴衆の注意や視線をコントロールするのが仕事だから、そういったワザの数々は対人関係やマーケティングにも使える。
 そこでマジックと心理学をあわせたような本はいくつか出ていて、なかなかおもしろい。これはニューヨークで「ミリオネアのためのマジシャン」として活躍するスティーヴ・コーエンが書いた、人の心を摑む本。私の場合、講演をすることも多いので、立ち振る舞いとか参考になります。以前は「いちばん大切なのはしゃべっている中身。服装や表情で聴衆の気を惹くなんて邪道」とか思ってましたが、いやいやどうして、やっぱり重要なのです。しかもこちらがちょっと気をつけて立ち振る舞いを修正するだけで、本当に聴衆の反応は違ってくるのだからおもしろい。
 コーエン氏は心理学を専攻。また大の日本贔屓らしく、早稲田大学に留学したこともあるそうで、日本にまつわる事例も本の中には書かれている。

 ロボット学や認知心理学への示唆も多数。たとえば188ページのエクササイズ、「目を瞑って10歩歩き、ちょっと目を開けて周囲の様子をすぐさまとらえる。また目を瞑って10歩歩いてみる。この訓練を繰り返すと、わずかな時間で大量の情報を獲得できるようになり、町の雑踏の中でも同じようにして歩ける」というのはおもしろい。ロボットやブレイン・マシン・インタフェースの技術に応用できそうだ。

スティーヴ・コーエンのウェブサイト。なかなか楽しげである。

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発達する知能—知能を形作る相互作用 (インテリジェンス・ダイナミクス 3)

 かつてのソニーCSL研究陣が主導してきた「インテリジェンス・ダイナミクス」シンポジウムをまとめた書籍、第3弾。今回から土井利忠さんの名前が編著者から消えています。

 私はこのシリーズ、けっこう好きで、第1回のシンポジウムは実際に聴きにいった。今回は田中文英氏の章がすばらしい。田中氏はソニーの小型ヒューマノイドQrioを持ってアメリカの保育園に行き、そこで数カ月にわたって園児たちとQrioのインタラクションを調べた工学者なのだが、ふつうの事例報告や論文のかたちではなく、田中氏が現場で見聞きし、感じたことを率直に、エッセイとして綴っている。とりたてて美文ではないのだけれど、これが本当に心を打つのだ。ひとりの人間としての悩み、戸惑い、喜びがここにはある。新書の編集者はいますぐ田中さんのところに行って原稿をもらってくることをお薦めしたい。
 他にYouTubeで話題になったヒヨコロボット「Keepon」の話など。

 しかし第1章は茂木健一郎氏の担当なのだけれど、読んでちょっと愕然としました。自社のシンポジウムで、しかも聴衆はプロの研究者たち、知能ロボット研究のエッジが集まるこのシンポジウムで、なぜこんな生ぬるい話をしますか。東工大の学生さんたちとやったらしき研究について言及しているものの、ちゃんとしたデータひとつ見せるわけでもなく、ざっとかいつまんで紹介するだけ。いい研究なのかどうかさえ読者には判断不能で、これじゃ実験やっている学生も浮かばれまい。原稿は講演をただテープ起こししただけで、しかも内容を補足するコラムは編著者の藤田さんが担当している。茂木さんはもう科学者であることをやめてしまったのだろうか??

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日本の「安心」はなぜ、消えたのか—社会心理学から見た現代日本の問題点

Google Street Viewの日本版ができて、とうぜん私の事務所の前も自宅もくっきり写り込んでいるわけだが、すごい世の中だなあと思いつつどうも厭な感じになってしまうのは、日本が山岸俊男氏のいうところの「安心社会」だからではないのか。
日本が「信頼社会」になったら、Google Street Viewへの違和感はなくなるのかもしれない。なんとなく。
でもそれが歓迎すべきことなのかどうか、よくわからないのであった。

最後に武士道より商人道を! というまとめになるのだが、ここはちょっと私の感覚と合わなかった。
この本についてはしっかりと感想を書いたりどこかで発表したりしようと思っていたのだが、時期を逃してしまった。ここでは読んだという記録のみに留めておく。

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エンハンスメント論争—身体・精神の増強と先端科学技術

 最近、エンハンスメントや脳神経倫理について発言を求められることが多くなってきた。
 ちょうどそういう時期なのか、ここへ来て何冊か基礎文献となる本が出始めてきている。ちょっとずついま読んでいるところです。
 まずはこれ。前半部は『Better Humans? The politics of human enhancement and life extension』(Paul Miller, James Wilsdon ed.,DEMOS,2006)の翻訳で、東大の科学技術インタープリター養成講座の学生さんたちが訳しています。後半は日本の研究者らによる現状のまとめと今後の展望。
 全体を通して読むとなかなかまとまっていて、かなり勉強になりました。私の知らない小ネタもたくさんあって、たとえばオリンピックに出たアスリートで後にエンハンスメント支持者に回って未来SFを書きまくった「FM-2030」とかいうペンネームのおっさん、イカしてます。思わずAmazonで本を探して注文してしまったよ。あとは日本研究者の論考では、新優生学のことがよくわかりました。なるほど、消費者論理を前面に出した優生学なのですね。国家のエゴではなくていまは個人のエゴが優生学をもたらすという構図はおもしろい。現代SFは新優生学と親和性が高い宿命にあるのでは、と思った次第。このあたりの直感は、いずれどこかで原稿にまとめてみたい。
 全体としては、もうちょっと気合いを入れて最終校正をしてくれるとよかった。ジョン・ターニーとジョン・ターネイ表記が一冊の本の中に混じっているのは素人っぽく見えてしまいます。あと、ひょっとして後半の論考は、原稿を数年眠らせていました? 少なくともヒトiPS細胞より後の原稿ではないような気がした。

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iPS細胞 世紀の発見が医療を変える (平凡社新書 431)

→朝日新聞2008.8.24「SFの想像力と科学の目で迫る生命」p.11


 本文中で言及されている他の2冊のうち、
田中幹人編著『iPS細胞 ヒトはどこまで再生できるか?』(日本実業出版社)
 は、こちらのエントリーを参照。

古谷美央/アイカム(武田遊・川村智子)『iPS細胞って、なんだろう』(アイカム)
 は、Amazon.co.jpやbk1で取り扱っていません。
 紀伊國屋BookWebやe-honなら注文可能ですので、そちらで検索してみて下さい。
 →出版社による紹介ページ
 →株式会社アイカム販売作品の取扱書店一覧

 いまのところ、iPS細胞関連の一般向け解説書は、この3冊がベストだと確信しています。

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楽園の日々—アーサー・C・クラークの回想

「朝日中学生ウイークリー」2008.7.20号 連載第28回

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種子たちの知恵—身近な植物に発見!

「朝日中学生ウイークリー」2008.6.15号 連載第27回

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限りなき夏 (未来の文学)


→朝日新聞2008.7.6「SFの題材を鮮やかな現代小説に

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ぼくの家は「世界遺産」 [地球のカタチ]

「朝日中学生ウイークリー」2008.5.18号 連載第26回

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The Tripods Attack!: The Young Chesterton Chronicles, Book 1

友達もいない16歳の孤児ギルバート・チェスタトンは、世紀末のロンドンでつまらない丁稚奉公に明け暮れる毎日。ところがある夜、奇妙な光が空に満ち、巨大な彗星が町外れに墜ちた。ギルバートは新聞社に雇われて、この奇怪な現象を解明するため奔走を始める。こいつは無害な自然現象なのか、それとも人類がはじめて体験するエイリアンの襲撃なのか?
ギルバートは3人の男と出会い、この謎に立ち向かうのだ!
ひとりはライバル新聞社のジャーナリスト、ハーブ・ウェルズ!
ふたりめは髭を生やした人なつっこいドクター! きっと彼は異星からの来訪者について知っている……。
そして3人目はブラウン神父!

えーと、まだ読んでません。
16歳のチェスタトンに萌える人がこの世の中にいるのでしょうか。しかもこれ、ヤング・チェスタトン・クロニクルの第一弾だそうで、シリーズ化されるんですか?
いちおうカトリック系の出版社から出ています。

ここまでめちゃくちゃだと、ネタ本として手元に持っているだけで満足してしまうぞ(笑)。
やっぱり時代はインディ・ジョーンズじゃなくてチェスタトンですよ!

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iPS細胞 ヒトはどこまで再生できるか?/iPS細胞ができた!—ひろがる人類の夢

京大の山中伸弥教授らがつくったiPS細胞(人工多能性幹細胞)について一般向けに概説する本が相次いで出版されているので、まとめて読んでみた。

まず田中幹人編著のほうがタッチの差で先に刊行されている。数名のチームで取材・執筆したようだ。早稲田の科学技術ジャーナリスト養成プログラム出身者が編集に関わっている。山中教授だけでなくそこの教員や学生たちにも取材し、彼らの言葉を入手した上で書籍全体を構成している。前半はどうやってiPS細胞ができたのかを山中教授の思考経過に基づいて詳細に解説。後半で今後の再生医療にどのような展望が開けるのか、また倫理的・政治的な問題点は何かを述べる。ジャーナリスティックな文体だが、押さえるべきところは押さえていると思う。アメリカの資本力に対して、日本はお役所仕事でES細胞の話を援用した規制も厳しすぎる、オールジャパン体制で行け、と煽るが、一方ではまだiPS細胞は再生医療に何も貢献できていないことをきちんと示し、患者さんも正しく知り、ともに勉強していかなければならない、と締めくくっているのは好感が持てる。
もうひとつ、私がポイントを置きたいのは、iPS細胞に関して生命倫理の話がどこまで書かれているかである。ES細胞は倫理的な問題があったけれどiPS細胞なら大丈夫、とローマ法王庁やブッシュからお墨つきをもらって一色歓迎ムードのiPS細胞だが、本当にそうなのか、という視点は大切である。本書では、iPS細胞が倫理面をクリアしたといわれているのは、キリスト教を基盤とした社会前提なのだから、そこを考えてみるべきだ、と述べている。ES細胞は胚からつくられるが、この胚の時点からが人だという考えはキリスト教のものだというわけ。では、今後技術が進めば、iPS細胞からも胚そのものをつくれるかもしれない。その場合、ならばiPS細胞も人なのか。そういう問題が残るとしている。またiPS細胞による再生医療はたぶん金がかかるから、格差拡大が進むとも懸念する。

もうちょっと笑顔で未来のノーベル賞候補者の成功に共感したいという人は後者を読むほうがいいだろう。ニュースで騒がれているiPS細胞についてちょっと知りたい。あまり難しい背景や研究の歴史は不要。山中先生すてき! と思いたい、という(おそらく多くの)読者は、こちらで充分だと思う。ものすごく活字も大きく、正直言ってかなり拙速につくられた本だと思うが、対談の聞き手役である畑中正一先生が(失礼ながらびっくりするほど)きちんと山中教授から話を聞き出していて、それなりに読める本に仕上がっている。注釈なども畑中先生がしっかり手を入れている。これはもう畑中先生の貢献で成り立っている本でしょう。ポイントをおさえながら、夢のある話も広げていて、1100円でふたりの公開対談を聴きに行ったと考えたら安い方ではないでしょうか。現実的にどういうふうにiPS細胞が利用されてゆくのかといったビジョンも明快に畑中先生が語っています。

ただしいくらかライフサイエンスを囓った人だと、このふたつの本は物足りないと思う。
もうちょっと最新の情報も知りたいという人は、「日経サイエンス」2008年7月号に要領よくまとまった記事が載っているので、そちらを読むといいと思った。

数年前から科学技術インタープリターの養成講座がいくつかの大学で開催されたけれど、社会が求めている科学本の一部はやっぱりこういうものだなあ、と感じた。
本当は、1年後にもっと詳しい決定版の本が出てほしい。海外ならそういう本が必ず出る。科学技術インタープリターの養成講座は、とりあえずこうして素早く、それなりに正確な本を出せる人材、あるいはそういったプロジェクトに協力できる人材は育てた。あとは本当に後世まで残る本を書ける人材を育てることができたのか、ということになると思う。そういう本、出てほしいなあ。

私がやはり読みたい本は、ES細胞からiPS細胞への流れをきちんと書いてある本だ。そして、iPS細胞の生命倫理問題を、それなりに瞠目させ、納得させる筆致で書いた本だ。またさらに欲をいうなら、いま渦中にいる研究者たちでさえ想像できない10年後、20年後、50年後の再生医療の未来を、説得力あるビジョンで書いた本だ。

実は私自身、山中教授がマウスでiPS細胞をつくって発表したとき、ある雑誌から「これを題材に未来を語ってほしい」という打診を受けた。しかし物事が大きく動いている最中で未来を考えることは本当に難しいのだなとそのとき痛感したのである。研究コミュニティ内部では描けないビジョンを描くやり方はきっとあるはずなのだが、私自身その方法をうまく見出せていない。これからの課題である。
その意味で今回紹介した前者の本が、航空機の発展にiPS細胞を準えているのは、うーむと思いながら違和感もあった。ES細胞はリリエンタールの時代、iPS細胞はライト兄弟、という比喩は、ハズしていると思うからだ。「日経サイエンス」の記事は「望む! 予想外の進展」という希望でしめくくっているが、こちらのほうが私の感覚にはフィットする。
たぶんiPS細胞の未来を語るときは、もう一段階、二段階くらいの跳躍を含んで話さなければならないのだろう。その跳躍をどのように語るかが、語り手としてのセンスなのだろう。

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空の英雄メルモーズ

サン=テグジュペリの知人だった飛行士ジャン・メルモーズの伝記。著者ジョゼフ・ケッセルは映画『昼顔』の原作者で、生前は大ベストセラー作家だったようだ。(いまはほとんど忘れ去られている?)
「空に生き 空に殉じた 〈フランスのリンドバーグ〉の生涯 『夜間飛行』『人間の大地』などサン=テグジュペリの数多くの名作のモデルとなった「フランスで最も有名な男」の飛行機に賭けたロマンあふれる生涯を、僚友の大作家が愛惜をこめて描く」
と帯にある。さすが小説家の作品だけあって内容はドラマチック、けっこう感動的です。
しかしこのメルモーズ、空の英雄となった後年には極右団体「火の十字架団」のメンバーとして活動、当時はお札になってほしい人ナンバーワンとまで崇められていたのに、死後は人気が急落し、サン=テグジュペリがお札になった。そういったことは本書にはまったく触れられていない。山﨑庸一郎は『『星の王子さま』のひと』(新潮文庫)の中で、本書のメルモーズはまるで半神のように描かれていると率直に評している。
ただ、ケッセル自身も飛行士なので、メルモーズの飛んだルートを後年になって自分で飛んだり、船で航跡を辿ったりして、なるべくメルモーズが感じたであろう自然の情景を書き込んでいるところは好感が持てるし、描写もいい。ケッセルにはいくつか飛行機小説があるみたいなので、それらはぜひ読んでみたいと思った。

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聖者は口を閉ざす

素晴らしい小説だ。今年の「このミス」でベスト3くらいに入ると思うが、そんなランキングなどどうでもいい。私にとってここ数年間でもっとも大切にしたいと思った小説であった。リチャード・プライス、なぜこの作家をこれまで読んでいなかったのか。急いで邦訳書籍すべてを揃えた。しかしこの著者は数年に一冊、長篇を著すのだから、こちらもそのペースで読めばよい。一生かけてこの著者の本を読み続ければよいのだ。

ハリウッドでテレビ脚本家としてそこそこ成功した主人公レイが、故郷の貧しい街に帰ってきて高校でボランティアの講師を始める。彼は虚飾を捨てて故郷に戻り、そこで善意を為して余生を過ごそうと考えていたのだ。彼は創作講座を担当し、才能の片鱗を見せる生徒にも出会う。しかしあるとき、彼は自宅で何者かに頭部を強打され、重傷を負う。一命は取り留めたが、レイは誰に殴られたのか語ろうとしない。その事件を探ることになったのは、レイの幼なじみであった女性警官ネリーズである。
この物語は、レイが殴られるまでの1カ月と、殴られてからの1カ月が交互に少しずつ語られてゆく。2000年代の分厚いベストセラー小説によくあった手法である。一時期のクーンツもこうやって無闇にストーリーを複雑化して枚数を稼いでいた。だから最初のうちはまたその手かと思ったし、時制の切り替えのタイミングがよくわからず混乱もした。しかし各章のタイトルを見て、そこに書かれている名前がその章の中心人物であり、1月が殴られる前まで、2月が殴られた後の話だとわかり、全体の構造がわかってきてからは物語に惹き込まれた。特に第一部の終盤、レイがダニエルという女性と愛し合うシーンに差し掛かる当たりからだ。
この小説の中で、多くの人が誰かに物語を語る。第二部でレイがかつて自分の書いた安手の青春テレビドラマの話をするシーンがある。あまりにベタなつくりの、視聴率優先主義のストーリーだ。しかし私はこの部分で、この分厚い長篇を読んでいて初めて涙を流して泣いてしまった。リチャード・プライスはなんと優れた作家なのか。この長篇では他に涙を流して泣けるところは一切ない。しかし読者である私は、この長い長篇の中でただ一度だけ、自動的にツボを突くこの安手のドラマのシーンで涙を流したのである。人間はそれほどまでに自動的な機械なのだ。
それでもリチャード・プライスは、その自動人形である私たちに、本当のエンターテインメントを贈り届ける。このあと本作では何度も胸に迫るようなシーンが現れる。たとえば332ページ。466ページ。501ページ。私はそれらのシーンでは泣けないのである。自動の涙は流せないのである。涙は流せないのに、本当の感動がそこにあるのだ。
そしてさらにその後、心に沁みるシーンがいくつかある。事件の真相が提示された後、私たち読者は再びレイの創作講座を訪れ、生徒たちの書いた拙い小説の朗読を、レイとともに聞くのだ。そしてレイは自分の娘に、ある個人的な話を物語る。そこでの娘の一言に行き着くまで、本書は528ページもかけている。
私たち全員が何かを物語れるわけではない。だがある一部の人は、誰かにものを語って聞かせる天賦の才を得て生まれるのだろう。それはとても素晴らしいことではないか。そして、その才を持つ者から物語を聞くこと、それは何と素晴らしいことであるのか。それは互いにとって何と幸せなことなのか。本書はそのことをまっすぐに伝えてくる。最後の1行は、あまりにも小説としては直裁的な記述である。作家ならこのようには書かず、別の描写で読者を感動させることだってできるはずだ。それでもリチャード・プライスはこのように本書を締めくくった。これでいいのだと私は思う。
なお原題は「Samaritan」、つまりサマリア人のことである。

読み進めてゆくうちに何度も、ちょっとしたシーンに自分の過去の記憶が揺さぶられるような感覚をおぼえた。つまりそれは著者の描写が見事な観察力に裏づけられているからだ。私がいちばん好きなのは、終盤の513ページ、皆でこれから自作小説の朗読をしようとするとき、娘のネリーがわけもなく恥ずかしがるシーンだ。本当に何気ない場面なのだが、私はここで登場人物とともに自分が生きているように感じたのだった。
こんな小説があるのだから、生きていて本当によかったと思う。もう少しエンターテインメントを読み続けていたい。そのためにもう少し生きていたい。そして自分でも物語を書き続けていきたい。心からそう思えた小説であった。

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フタバスズキリュウ発掘物語—八〇〇〇万年の時を経て甦ったクビナガリュウ (DOJIN選書 14)


→朝日新聞2008.5.25「発掘から命名まで 38年のロマンが

「日本に化石ブームを起こし、映画『ドラえもん のび太の恐竜』のピー助としても知られるフタバスズキリュウ 発掘から骨格の復元、種の同定までの軌跡」
 と帯にあるのに、書評で述べたとおり、本文中では一回も『のび太の恐竜』へ言及はない。ドラえもんのおかげで日本では知らない子どもがいないフタバスズキリュウだが、これまではほとんど関連本がなかったので、これがようやく出た決定版解説書といえる。

『のび太の恐竜』への言及がないのは、書評でも述べておいたとおり、実際の研究結果が炙り出したフタバスズキリュウの生態が、藤子・F・不二雄先生の描いたピー助とはまったく違うものだから。
まずフタバスズキリュウは胎生の可能性が高く、卵では生まれていなかったかもしれない。だからのび太が卵を発見することはなさそうだ。またフタバスズキリュウは陸に上がれなかった可能性が高い。のび太の部屋で遊んだり、ましてや白亜紀のアメリカ大陸を横断したりなんてことは無理だろう。そもそも首長竜は恐竜のグループでさえない。つまり『のび太の恐竜』は、タイトルから何から完璧に間違っているというわけ。

それでも『のび太の恐竜』は傑作であり、多くの子供たちに恐竜へのロマンを与え、科学の発展に寄与した。藤子・F先生はむしろ『のび太の恐竜』をドラえもん版『野生のエルザ』として描いた。

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証人たち (シムノン本格小説選)

現在刊行されている多くの小説は、読者に呼吸を合わせる体裁を採っていると思う。読者が読んで心地よいように、読者の呼吸に合わせて作家が文章を書いている。
なぜいまシムノンが読まれなくなったのか。たぶんそれは、シムノンの小説が、読者ではなくシムノンの呼吸によって書かれているからだと思う。つまり読者の方がシムノンの呼吸に合わせなければならない。これはいまの時代、とても奇特なことであり、読者を慮っていないとして拒絶されがちなスタイルなのだと思う。しかしかつての多くの本は、読者の方が作者に呼吸を合わせていたのではなかったか? 
というわけで本書もいつも通りのシムノン。シムノンは1日1章書き、8章くらいで長篇1本を終えるというスタイルを貫いた。読み進めることで、私自身がシムノンという作家の日常生活に重ね合わさってゆく、そんな感覚。でもこういう読書体験が、年をとると好きになる。30歳を過ぎたらシムノンを読もう、とはよくいわれることだが、それってつまり、30歳を過ぎたら人は他人の呼吸に自分を合わせることで歓びを見出せるようになるのだ、といっているのだと思う。
いま「シムノン邦訳全作品を読もう」キャンペーンをひとりで実施中なのである。いくつか超レア作品があるのが困りもの。でも最近『死んだギャレ氏』を見つけてしまったので、なんとなくコンプリートできそうな雰囲気になってしまった。あとは『自由酒場』と『オランダの悲劇』くらいか?

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ユゴーの不思議な発明

朝日新聞の書評は奥付から2カ月を過ぎたものは原則として取り上げることができない。ちょっと油断するとすぐに2カ月経ってしまうし、後で読んでおもしろかったなあと思っても無理。しかも少ないスペースに20人近い書評委員で書くものだから、順番が回ってこないと結局紙面に取り上げることができなかった、ということもままある……てなことがだんだんわかってきた。
なので面白いと思ったけれど書評できなかった本は、こっちで言及していきたい。

本書はイラストと文章が混じり合った、ちょっと不思議な体裁の本。昔もこんなのがあったような気がする。イラストになっているのはむしろ物語上のタメの部分で、なんというか、パラパラマンガの技法というか、手塚治虫の『新宝島』の冒頭部分を読むのに近い感じ?
映画初期の時代を担ったあのメリエス自作の機械人形を巡る、少年少女の冒険物語……と書くとネタばらしになってしまうのだけれど、そういうキーワードに反応する人が読んでこそおもしろい本。文章はさほどうまいとは思わないが、ストーリーはけっこうおもしろくて、腕の立つ監督によって映画化されたらきっといい作品になるだろうと思わせる。
分厚いですがさくっと読めます。

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チックタック

→朝日新聞2008.5.4「どこまでも大まじめにばかばかしく

80年代ホラー映画『クリッター』なんかが大好きな人にはたまらないはずのおバカ超絶ホラー。カバーイラストもかわいい。
同じ作者の書評は一年以上空けるという不文律があるのだが、『オッド・トーマス』がいつまで経っても邦訳される気配がないので、しびれを切らした。

ところで、クーンツのテーマが「愛は勝つ」であるといったのは尾之上浩司さんだったと思う。そこに私がつけ加えて、クーンツの2大テーマは「愛は勝つ」「人生には目的がある」であると指摘、日本ではこの説が流布して、本書の風間賢二さんの訳者あとがきでも言及されている。
ただそればかりでは書評にならないので、新しいキーワードを今回はじめて提示してみた。

これでミステリー、SF、科学、ホラーと、ひととおり関心範囲の書評をお披露目したことになる。
本当は純文系の作品もやりたいのだけれど、なかなか競り落とせません。

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キュリアス・マインド

「朝日中学生ウイークリー」2008.4.20号 連載第25回

連載3年目に突入しました。
小学生向けや高校生向けの科学本ならたくさんあるのだけれど、中学生向けの科学本って意外と少ない。なのでいつも本の選択には頭を使います。
学校の司書さんから応援のメッセージをいただいたときは嬉しかったですね。
これからもどうぞよろしく。

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アゲハ蝶の白地図

「朝日中学生ウイークリー」2008.3.16号 連載第24回

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一年中わくわくしてた

「朝日中学生ウイークリー」2008.2.17号 連載第23回

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恐竜はなぜ鳥に進化したのか―絶滅も進化も酸素濃度が決めた

→朝日新聞2008.4.20「薄い酸素濃度の中、生き延びようと

おもしろい仮説だがやや拙速な印象の書籍なので、ニック・レーン『ミトコンドリアが進化を決めた』との併読をお薦めする書評とした。

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小松左京自伝―実存を求めて

→朝日新聞2008.4.13「文学を広げ、縦横にパワーを発揮

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完全恋愛

→朝日新聞2008.4.6「恋愛の痛みと推理の歓びがピタリと

4月より朝日新聞の書評委員になりました。毎週ではありませんが日曜日に掲載され、2日後の火曜日にアサヒ・コムでも掲載されるようです。随時リンクしておきます。
仙台のジュンク堂LOFT店でも書評に取り上げた本を扱っていただけることになりました。ぜひ「瀬名秀明書店」の棚を覗いてみてください。

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信じぬ者は救われる

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【2008.8.12, 2008.8.15, 2008.10.15追記】
 以下の本文・コメント欄で言及している(飽和)水素水に関して、学術論文の一覧と瀬名の個人見解をまとめました。ぜひ次のエントリーもご覧ください。
瀬名NEWS: 水素水研究の基本を理解するためのリンク集 【水素水その2】(2008年8月11日公開)
 そしてこのリンク集に対して、日本医科大学大学院・加齢医学研究科の太田成男教授から、水素水研究に関して心を動かされる文書をいただきました。許可を得て次のエントリーで紹介しています。こちらもご覧いただければ幸いです。
瀬名NEWS: 太田成男先生からの手紙 【水素水その3】(2008年8月15日公開)
 水素研究会発足記念シンポジウムにおいて、私は水素医学研究に関するpublic relationsの充実を呼びかけています。記録は次のリンクから辿って下さい。これは本エントリーにおいて私が今後の作家活動で答えてゆくと述べたことの実践であり、私が作家活動のなかでなしうることをなした仕事であると考えています。
→「水素研究会発足記念シンポジウムの内容公開 【水素水その4】(2008年10月15日公開)
→「「一般の皆様へ」研究室のスタンスを伝える 【水素水その5】(2008年11月18日公開)
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2刷を謹呈していただいたので読んでみました。香山さんはいつも私の事務所宛に送って下さるのに、今回は自宅宛。ということはいつもと違う謹呈リストで送られてきたのでしょう。
率直に、かつだらだらと感想と述べます。

みっともない発言を活字にしたり、ウェブに載せたりするのはもうやめよう、と読みながら思った。世の中いろいろ愚痴をいいたいことはあるだろうし、自分のことを弁解したくなるけれど、それを読むのはおもしろくないよね。だから今回限りでやめようと思う。
香山リカと菊池誠の対談集。香山さんはこのところ月刊ペースで新書等を量産しています。おもしろい本もあれば、明らかにやっつけ仕事のものもある。菊池さんは「kikulog」というウェブサイトでの活動により、ニセ科学批判の代表者として世間から認識されている。彼の活動に注目した記者らが、昨年くらいに相次いで記事に取り上げたので、ちょっとしたニセ科学批判ブームになったことは記憶に新しい。本人はカフェ・サイファイティークの一員であり、サイバーパンクやディック、ラッカーなどのドラッグ系SFのファンだと思われます。

対談集としては構成もだらだらしていて程度が低いです。飲み屋か、せいぜい半分内輪のトークイベントでやってほしい会話。編集者がもっと介入して、いい本に仕上げる努力をすべきだったと思う。岩波ブックレットみたいにすればよかったのに、ほとんど最初から最後までふたりの愚痴と迷いです。「江原啓之さんをウソ発見器にかけてみたい!」というオビもかなりひどい。「精神科医と物理学者の超刺激対談」という煽りも、肩書きに依存して権威づけしているわけで、改善の余地はあるでしょう。もっともご本人たちは「編集者が勝手につけたんだ、本文で弁解している」というかもしれませんが、世間はオビだって著者の責任範囲だと思うものですよ。
#ただし挟み込まれている出版案内の書影には、違うオビがついている。「ニセ科学やスピリチュアルにハマる人は政治にもだまされる」……初刷と2刷でオビが変更されたのか、マーケティングを考慮してぎりぎりの判断でオビが変更された可能性もある。むろんそれも著者が背負うことになる責任のひとつだと思う。

おふたりのいっていることの基本は、私も同意しますし、迷いにもある程度の共感を覚えます。しかし読んでいて首を傾げたくなってくるのは、おふたりの言動にぶれがあるからで、そして何を目的とした(どこへ向かおうとした)対談なのか最後まで分からないからでしょう。カバージャケットのおふたりはさわやかな笑顔ですが、こんな読後感は得られません。

菊池さんに対しては、複雑な気持ちがありますね。私が『パラサイト・イヴ』でデビューしたころ、菊池さんは仲間たちとウェブ掲示板の書き込みをしていて、そこで私を嘲笑していました。あの掲示板はミトコンドリアを擬人化している、という批判の代表格だったのではないかな。『パラサイト・イヴ』が映画化されることが決まったときは、「ミトコンドリアはかぶり物でやるのか」と嘲笑し合っていましたね(この発言自体は菊池さんのものではありません)。
だから私は、菊池さんがニセ科学批判における笑いの効用を説いても、容易に信用することはできません。ニセ科学には笑いを浴びせよう、それが最大の批判効果をもたらす、という主張は、ときに怖ろしい凶器となることを知っているからです。相手を見くだすことで、自分を安全な高みに置き、自分を優位に立たせる、そのために嘲笑う。私はデビューして13年の間で、この習慣がSF業界に驚くほど浸透していることを知りました。菊池さんの中にもそういう感覚がいくらか残っていると私は感じます。おおむね彼らが嘲笑する相手は、反論してこない絶対権力でした。だからこそ安心して嘲笑できたわけです。95年当時、私はそういう絶対権力者と見なされていたのかもしれません(実際、平然とそういうことをいってくるSF作家がいましたね)。しかし私は反論したので、彼らは面食らったのだろうと思います。だからニセ科学批判の手段として、相手を笑うということには、私は真っ向から異を唱えたいと思います。あなたがもし、あるとき突然、人から誤解のもとに嘲笑されたらどうしますか? その心の痛手は、本当に大きいものです。だからどんなときでも人を嘲笑してはいけない。笑う人は他人から笑われるということを肝に銘じておいた方がいい。笑いたいなら権力そのものを笑えばいい。
もうひとつ、SF業界に根強く残っている悪癖は「謝罪しない」ということです。私はこれでもデビューしていくらか人生経験を積み、自分が悪かったと思うことには謝罪できる心を持てるようになってきました。私は菊池さんに対して、自分が行き過ぎた言葉を過去に述べたことについては頭を下げて謝っています。しかし菊池さんはどうでしょう。他人が謝ることでまだ勝ち負けを決めているのでは。汚い言葉を自分で使っていたと感じたときは、お互いにこれからは謝ることにしませんか。

菊池さんたちの主張で、以前から私がどうしても了承できないのは、実験についての考え方。
このあたりにまとめられている話ですが、菊池さんや田崎氏と私では「科学者」というものに対する考え方が違うためにこの違和感が生じています。
田崎晴明「「水からの伝言」を信じないでください」のうち、「「水からの伝言」が事実でないというためには、実験で確かめなくてはいけないのでは?
本書では36ページ。

菊池 『水からの伝言』については長い長い議論があるんです。反証が必要か、必要でないかというだけで、ものすごい長い議論がある。僕らは、あそこまででたらめな話に反証は不要だという立場です。(中略)『水からの伝言』って、科学的な主張の体をなしていないんですよ。だから、反証しようにも、何をすれば反証になるのか実はよくわからない。
香山 大規模な実験をやってなんて、ばかばかしいと思われるんでしょうね。(中略)
菊池 もちろんそれに納得しない人はいますよ。やはり反証してこそ科学ではないかって。『水からの伝言』を信じているわけではなく、自分は科学の側だと思っている人のなかにもそういう人はいる。
香山 一〇万個でも、一万個でもビーカーに「ありがとう」と貼って、全部いい結晶にならなかったと反証する。でも、そういうことをすると、じゃあ一万一個目はなるかもしれないという議論になりかねない。
菊池 もともと歩留まりの悪い実験なんです、あれは。(中略)歩留まりの悪さをうまいこと利用していて、だからああいう話ができるわけ。

この部分はかなりあざといですね。先手先手を打っている印象。だからこそ微妙に引っ掛かります。
まず、これには長い経緯があるんだから素人が思いつきで意見を述べるのは危険だよ、と相手を牽制している。科学の体をなしていないものに科学的な反証しても意味がない、というのはそのとおりだけれど、ではその他のグレーゾーンにどう立ち向かえばいいのか、という問題に本書は回答を与えていない。一〇万個のビーカーについては、香山さんが統計学の手法をあえて無視し、架空の反論をでっちあげていて問題があります。

私たちが世界と初めて向かい合うときのことを思い出してみましょう。不思議だなと思ったとき、私たちは実験して確かめたいと思う。菊池さんだってかつてはUFOにはまったと本書のなかで語っています。まず興味を持つとき、私たちはその対象がニセ科学かどうかなんてわからないわけです。だからこそいろいろ調べたり、実験したりする。その過程で科学を学んでゆく。

だからいくら水の結晶の話が非科学的でも、ふしぎだなと思って実験したいと願う人が出てきたら、その人をきちんとサポートできる社会が必要なのだと私は強く思うのです。その過程で科学を学んでゆけばいい。
もし自分の子どもが実験したいといい始めたら? 私はその子の好奇心を伸ばしてあげたいと思う。どうすれば実験できるか、いっしょに考えてあげたいと思う。「ありがとう」とそのまま紙を貼る実験はつまらないよ、きみは本当にその実験をやってみたいのかい? と私は質問するかもしれない。でも代わりに、きみの好奇心を満足させるこんな実験ならおもしろいよと提案するかもしれない。水の結晶の実験は難しい? ならばどんな実験系なら本質を変えずに実行できるのか考えればいい。ごはんが腐るか腐らないかでやってみてもいい。いくつのサンプルが必要だろうか? 条件はどうすれば一定になるだろうか? どういう検定をすればいいだろうか? そして、ではどんなものなら本当に影響を与えるのだろうか? これを読んでいる科学者のあなたでさえ、きちんとした実験系をすぐにはいえないと思う。統計学の本をひっくり返して、勉強し直さないといけない。これこそ実験科学の第一歩だ。苦労してやっても、思い通りの結果にならないかもしれない。自分が信じていたことを、実験結果は残酷にも否定する。それを受け入れる強さも必要だ。さて、その次はどうすればいいのか? 実験系そのものがダメなのか、それとも自分の手さばきの問題なのか? 文献をどうやって調べればいいのか? 実験のコツをつかむにはどうすればいいのか? どういう実験が本当におもしろいのか? そのセンスを磨くには? こういう経験を一つずつ積み上げてゆくことこそ、なにより科学の面白さであるはず。反証する意味がないという話ではなく、わたしがここでいっているのは実験をしたいというきっかけは何であれ大切にしなければならないということ。
生き残るためのルールとして、そんなことに長く関わるな、ということは重要でしょう。子どもに「ストーブに近寄ってはいけない」ときつく叱ることは大切。その意味で「こんなこと実験するまでもない」ということは問題ないでしょう。しかし私は、そこから先の眼差しが大切だと思うので、「水の結晶と心の働きについて実験したい」ともし自分に質問されたら別の答え方をしたい。その人の実験力を伸ばすようなアドバイスをしてあげたい。「ほとんどの読者のみなさんが(そして、「水からの伝言」の実験をしている人たちが)科学者ではないからです」とはいいたくない。

むろん全員が全員、科学の面白さにすぐ目覚めるとは思いません。そもそも実験したいと思うような子は、『水からの伝言』なんかに引っ掛からないって? まあそうかもしれないですね。
それでも。
私たちが物事を信頼してゆくためには、実験しかない。
と私は思うのです。
実験結果は、私たちにおかしな信念を植えつけることがあります。しかし同時に、おかしな信念をひっぺがす力もある。かつて科学者が生命の自然発生説を信じていたのはなぜか。パストゥールの『自然発生説の検討』に詳細に書いてあります。かつての科学者が信心深かったからではない。彼らもまた科学の精神に忠実な実験科学者でした。ちゃんと科学的にフラスコを密封して、そこからやはり生命が湧いてくることを実験で見て、それによって自然発生説を主張していたわけです。彼らは残念ながらわずかに注意不足で、完璧に密封したと思っても空気中の細菌が入る余地を残してしまっていた。パストゥールは彼らの論文を丹念に読み、細菌が入りそうなところを徹底的に見直して、見事な実証実験をして、生命が湧いて出ないことを証明しました。この教訓はまでも有効です。
いま私たちが常識と思っていることも、今後は実験によって覆される可能性が大いにあります。だからこそ、私たちは実験手技を学び、実験によって自分の信念を見直し続けてゆく必要がありますよね。私たちが本当に学ばなければならないのは、実験の大切さです。
『水からの伝言』は常識以前の問題だろうって? いや、私がいまいいたいのは、そういうことではありません。

水の結晶なら、自分の生活と直接の関係はないでしょう。しかし重要なのは、私たちが常にそういったものと無関係でいることはできない、という事実なのです。
なぜこれらとの対峙方法を知っておく必要があるのでしょうか。それは地球上に棲む私たちは、誰もが多かれ少なかれ科学者であるからです。私は男で、日本人で、仙台在住で、作家です。それぞれの属性をいつも少しずつ持っているように、同時に私はいつだってちょっぴり科学者なのです。私だけでなく地球上すべての人がそうなのだと思います。
ですから私たちは、日常のどこかで科学者としてのふるまいを要求されます。

そのとき科学者であるためには何を身につけていなければならないか。つまりそれが「実験力」なのだと思うのです。それは自分で実験を組み立て、実行できる能力であり、そこには論理的思考、無駄を省ける合理性、職人的なカン、手先の器用さ、鋭い観察力などが求められます。すべてを習得するのはとても大変ですから、私たちは小学校から大学院までひたすら勉強を続けるのです。実験力が身についてはじめて他人の実験の善し悪しがわかるようになります。相手が狭い業界のテーゼに縛られているということが見抜けるようになります。

たとえば、現在進行中の健康科学に対してどう向き合えばいいか、ということは、このウェブページにも書かれています。
健康情報の信頼性を見分けるには
おそらく多くのリベラルな科学者は、この考え方を身につけていることでしょう。自分の専門外のことは趨勢を見守るしかない。自分にとりあえず関係のないことは、こうするのが理性ある大人の対応でしょう。「レスベラトロール? ふーん、まあ今後の実験結果を待ちましょう」で、さほど問題はない。
しかし私たちは誰もが科学者です。だから人生の中でどこかで当事者になる。ニセ科学についていちばん難しい問題はここです。
まずは職業科学者の日常について考えてみましょう。科学者は常に切っ先の研究をしています。そこで日々得られる実験結果は、まだ世界中の誰も知らないことです。自分がはたして実験に騙されているのか、それとも新しい真実をつかみかけているのか、本人でさえわからないのがふつうです。常識とはかけ離れた結果が出ることだってあります。そのとき私たちはどうすればいいのでしょうか? 実験力を鍛えて、その実験結果をとりあえず信頼するしかありません。
もしあなたの上司が飽和水素水の研究を始めたらどうしますか。あなたはきっぱりと「それはニセ科学です」といいますか。いや、その上司が出してくる実験結果はどれも明快で、見事なものばかりです。あなたは騙されかかっているのでしょうか。上司はその成果の一部を「Nature medicine」にも載せました。「Natureは金儲けに走ることがあるから信用できない」って? それはそれで偏見ですよね。もしあなたが別の研究室の人間なら、とりあえず放置して、無視しておくこともできるでしょう。しかしあなたはもはや飽和水素水の研究室の一員なのです。あなたはどうしますか?
この件については、私も『ミトコンドリアのちから』の中で、慎重に文章を綴りました。当事者になってしまったら、私たちは自分で実験し、その結果を見据えてゆくしかない。自分で実験できないなら、自らの「実験力」という心のタフネスを駆使して目の前の結果を吟味しなければならない。会社の圧力で実験結果をねじ曲げてマイナスイオン商品を売らなければならなかった、などのケースなら、他人に責任を押しつけられるので話は単純です。でも本当に難しいのは、自分でさえいま目の前で起こっていることが真実なのか間違いなのかわからないときなのです。いまあなたが判断を求められているときなのです。実験結果があなたの常識に揺さぶりを掛け、生命は湧いて出るのか、決して自然発生しないのか、わからないときです。そういうとき「私は科学者ではありません」という逃げは通用しません。
そう考えると、私たちは日常の中でも科学者としての眼差しが必要であることがわかります。たとえば、あなたはテレビの健康番組を見て、とあるサプリメントを飲み始めました。なんだか体がこのところ軽くなったようです。あなたはそのサプリメントに効果があると思いますか? 
ここではさらに問題が複雑化します。あなたの目的は、健康を取り戻すということです。結果的に健康になったのなら、それでとりあえずはいいでしょう。「あのサプリはよかったよ」と人にお勧めすることもいいでしょう。そういう話、飲み会では盛り上がります。しかしそこにどれだけの根拠があるのか、自分で見定めておく必要はあるでしょう。ここでも実験力が重要になります。自分に効いたと思う根拠をどこまで見積もるか。他人に勧める根拠をどこまで見積もるか。それはあなたの実験力がどれだけ鍛えられているかにかかってきます。人から勧められて自分はどう判断するかということも、同じく実験力にかかってきます。この実験力はあなたの社会的知能にも直結するでしょう。これはしんどいことです。タフであることが必要だろうと思います。しかし「あなたは科学者じゃないんだから、取り敢えずこう考えておきなさい」といってしまうと、大切なことが取りこぼされてしまう。私はだからあえて、すべての人が科学者であり、当事者であるという立場を採りたい。

そしてもうひとつ。大切なことがあります。なぜそもそもこの実験をするのか? なぜこの実験が必要なのか? そういうことを考える力も、また実験力だろうと思います。「ありがとう」と紙で貼って水の結晶をつくってみる実験はばかばかしい、と思えるようになるには、なぜ自分はこの実験をするのか、それが語れるように成長してゆくことが必要となります。最初からそんな能力を持っている人はいません。学習して、身につけてゆくものです。だからこそ私は実験する芽を摘んではいけないと思います。
いま学会に行けば、たくさんの人が発表しています。でもどれだけの人が、自分の研究の意義を本当に語れるでしょう?

いまの大学院教育が大変なのは、このようなことををきちんと教育できない忙しさにあります。実験の基礎力は、大学院で学ぶしかない。するとそれだけで精一杯になってしまって、自分がそもそもこういう研究をするのはどうなんだろう、という本質まで行けない。
私は最近よく、「二枚目がかっこいい研究者になろう」と呼びかけています。学会で発表するとき、スライドの一枚目はタイトルと名前と所属。二枚目が研究の背景です。しかし多くの学生は、ここをなおざりにする。先輩からスライドをもらってきて、「こんなふうに適当にいっておけばいいよ」と教わってしまう。教授のいっていることをそのまま鵜呑みにしてしまう。二枚目は適当にお茶を濁して、「まあそういうことになっているんだから察してよ」となあなあにして、早く三枚目の実験内容に話を移したい。そういう風潮があるから、オープンキャンパスや学会会場で、二枚目のスライドについてつっこむと多くの学生はしどろもどろになります。助教さんや准教授さんでさえ、ここができない人がいる。何を質問されているのか分からないという顔をする人さえいる。
でもね、研究で本当に大切なのは、二枚目のスライドを豊かに語ることだと思うのです。本当は二枚目のスライドだけで1時間くらい語れるバックグラウンドがほしい。大学院はそういうことを身につける場だと思うのに、実際はそれができていない。

作家だって同じ。本当にかっこいい作家になること。それを目指さないで、何がエンターテインメント作家なのか?
看護師、薬剤師、私はそういう人たちと話す機会も多いのですが、私がこういった分野に以前から希望を見出しているのは、ここに21世紀の科学があると思うからです。私の共著作『境界知のダイナミズム』は、こういった「現場の科学者」たちにやはりもっとも読まれているようです。

本書の終盤は、やたらとマーケティングの話をしています。
マーケティングは、まあやったほうがいいでしょうが、正直なところ自分自身でそのへんに深く足を突っ込もうとは思わないかな。マーケティングは結局のところ、本書の著者らが悩んでいる二分法の話になってしまうから。
いまは10年前と比べると、科学に接する機会はとても増えてきました。サイエンスカフェはどこでも隆盛です。マーケティングが成功した例でしょう。でもそれが科学普及だとはあまり思わないな。自分でイベントを企画することもありますが、私はでんじろうさんのようにはなれないし、そのへんは適材適所でいいんじゃないか。私は自分でできること、自分で重要だと思うことをやっています。
ただひとつ自らを律していることがあります。それは、科学コミュニケーション業界の論理にはまらないこと。科学コミュニケーションが大切だという人たちが集まると(他の分野でも同様だが)、やはりそこには業界の枠ができてしまう。彼らだけの正義感や常識ができてしまう。
本書で語り合っているふたりの著者は、いまそういった枠組みに取り込まれてしまうなかで、自分をどうすればいいのか悩んでいるのではないかな。そこが彼らにとって「信じる」と「信じぬ」の揺れなのではないかな。
早くも31ページで菊池さんは述べている。「「どれがウソで、どれが本当かもっと教えてほしい」と言われるんです。だけど、それを言ったって、言われたものについて、ああウソなんだとか、本当なんだって思うだけじゃないかという、そんな無力感があります。結論だけあればいい」その後に述べられた言葉に力はない。「僕らがずっと言い続けているのは、答えだけじゃだめだよという話なんです」

むろんこういう本を一冊つくっておかないと、つぎに進めないというのもわかる。迷いをそのまま出しておかないと、つきものが落ちないというか。
でもその上で思う、せめてこういう本では、そこへの希望や意思表明をふたりで出してほしかった。難しいことをあえて承知で語ってほしかった。憂いて終わってほしくなかった。
次は拙速な本ではなく、「救い」とは何であるのかを本当に語ってほしい。著者ふたりに対して、切にそう思います。

*追記(2008.3.16)著者のおひとりである菊池誠さんからコメントをいただきました。ありがとうございます。
「信じぬ者」と瀬名さんとパライブの頃
こちらの記憶でつけくわえることがあるとすれば、
・「多くの読者」と書かれているが、当時擬人化を問題視していたのは全体の読者からすると一部であって、多数派ではなかった印象。だからかえって目立って見えた。
・そういった「擬人化しちゃ(SF/ホラー小説として)だめじゃん」という当時の御意見の中には、「擬人化しちゃ(科学者として)だめじゃん」「(人間として)だめじゃん」などのように、著者への人格批判に拡大してしまうものもあった。そういう背景があったので、菊池さんたちと意見交換した。
ということですね。「科学とは何か」についてはぜひいつかお話してみたいと思います。
「科学を伝える」という点では、菊池さんには昨年ならびに本年の日本SF大会でお世話になっています。以前に比べると、ときにはちゃんとSFの中に入って発信することも大切だと思うようになってきました。このような心境の変化は、菊池さんとのやりとりのおかげです。心から感謝しています。

追記(2008.4.2) 皆様、多くのご意見をありがとうございました。これは定型文ではなく、貴重なお言葉に心から感謝をしています。私自身、多くの発見と反省、またそれを踏まえての新しい思いがありました。あとは今後の作品や作家活動でお答えすべきことだと感じましたので、ここでコメント欄を閉じさせていただきます。
最後に私から後日、きくちさんに対してはお返事を書き込みますのでお待ちいただければ幸いです。

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伊勢神宮ひとり歩き―神の森のヴィジュアルガイドブック

以前、伊勢神宮の近くに親戚の家がある教え子のところへおじゃましたとき、お薦めされた本。その翌日、教え子たちと伊勢神宮の外宮さんと内宮さんに行って、教え子の佇まいが美しくて感銘を受けたのだった。
神宮の基本がわかる、素晴らしい本だと思う。写真もふんだんに盛り込まれており、神宮の澄んだ空気が伝わってくるだけでなく、説明の文章もわかりやすい。神嘗祭や式年遷宮、参拝作法など、私のようにふつうに生きていてふつうに忘れてしまっていることや、ふつうに知らずにいたことがきちんと記されている。冒頭に掲載されている「悩んだら、神社に心を預けよう」というエッセイもいい。お薦めの一冊。

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青空を歩く本 (GIFT BOOKS)

以前に紹介した『楽しい気象観察図鑑』の人による、ごく小さなギフトブック。
パイロット訓練をするようになってから、空の写真集をいろいろ買ってみたけれど、うん、この人の本がやっぱりいちばん好きだ。
なにげない空を写しているようだが、その後ろにたぶん何千枚という写真があって、その中から選びに選び抜いたものが掲載されていることが感じ取れる。ごく普通の空が写っているのに、著者の眼差しがはっきりと感じ取れて、この空を美しいと思っている著者の感情まで伝わってくる。お薦め。

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メアリー・アニングの冒険 恐竜学をひらいた女化石屋 (朝日選書)

「朝日中学生ウイークリー」2008.1.20号 連載第22回

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星をまく人 (単行本)

「朝日中学生ウイークリー」2007.12.16号 連載第21回

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天才の発想力 エジソンとテスラ、発明の神に学ぶ (サイエンス・アイ新書 53)

新戸雅章というとテスラの印象が強いのだけれど、今回はエジソンとテスラの生涯を比較して両者の天才の相違を分析してゆく構成。写真も多く初心者向けの入門書。
しかしいちばんびっくりしたのは、『テスラ自伝』なる邦訳書が新戸雅章の手によって2003年に自費出版されていたという事実。あわてて調べたら、もう品切れ。くそー、手に入れておきたかった。

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迷惑な進化―病気の遺伝子はどこから来たのか

「朝日中学生ウイークリー」2007.11.18号 連載第20回

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隕石コレクター―鉱物学、岩石学、天文学が解き明かす「宇宙からの石」

「朝日中学生ウイークリー」2007.10.21号 連載第19回

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ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ―ハイテク海洋動物学への招待 (光文社新書 (315))

「朝日中学生ウイークリー」2007.9.16号 連載第18回

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オルカ―海の王シャチと風の物語 (ハヤカワ文庫 NF (322))

「朝日中学生ウイークリー」2007.8.19号 連載第17回

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ゲノムサイエンス

「朝日中学生ウイークリー」2007.7.15号 連載第16回

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夜中に犬に起こった奇妙な事件 新装版 (新書)

「朝日中学生ウイークリー」2007.6.17号 連載第15回

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パラレルワールド―11次元の宇宙から超空間へ

「朝日中学生ウイークリー」2007.3.18号 連載第12回

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だまされる視覚 錯視の楽しみ方 (DOJIN選書)

「朝日中学生ウイークリー」2007.2.18号 連載第11回

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教えて!!Mr.アインシュタイン

「朝日中学生ウイークリー」2007.1.21号 連載第10回

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世界でもっとも美しい10の科学実験

「朝日中学生ウイークリー」2006.12.17号 連載第9回

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エジソン理系の想像力 (理想の教室)

「朝日中学生ウイークリー」2006.11.19号 連載第8回

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ビッグバン宇宙論

「朝日中学生ウイークリー」2006.7.16号 連載第4回

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ロボ鉄 (大型本)

「朝日中学生ウイークリー」2006.6.18号 連載第3回

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ハッピーになれる算数 (よりみちパン!セ)

「朝日中学生ウイークリー」2006.5.21号 連載第2回

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もっと!ドラえもん。Vol.1

Amazon.co.jpに未掲載?

以前に発表した書評で、ウェブに残っているものはリンクしておくことにします。
「朝日中学生ウイークリー」2006.4.16号 連載第1回

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知的な距離感

クロースアップ・マジックの第一人者である前田知洋が書いた本。人間の「距離感」がテーマで、〈境界知〉提唱者のひとりである私としては「なるほど、マジシャンがそのテーマで書くならきっとおもしろいに違いない!」と思ったのだけれど、まあふつうでした。実際にマジックをするときに感じたことなど、自分のエピソードは少ししか書かれていなくて、多くは一般論ですね。もっと自分のエピソードをたくさんいれてほしかったかな。
それでも、著者が以前レストランで「マジックはいかがですか」と各テーブルを回っていたとき、ひとつのテーブルが受けると他のテーブルからも声がかかるとか、初めて社交パーティに行って緊張した話などはおもしろかった。

ところで、「知ったことしか書かれていない」という批評をよく目にする。人がこういうことを思う時って、どういう心理状態なんだろう、といつも私は考える。
どんな本であっても。本当に知ったことしか書かれていないということはまずない(これは断言できる。子ども向けの科学の本などでも、すべてが知っているということは絶対にない)。知らないことも書かれているはずなのに、それは意識からオミットされて、知っているという感覚ばかりで満たされてしまう。自分の不満を何か客観めいた感想に落とし込もうとして、こうなるのだろうか。知らないことでも想像の範囲内だと思ってしまうのだろうか。たんに著者に負けを認めるのが厭なのか(笑)。ちょっとこのことは真剣に調べてみたい気がする。

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マイケル・ファラデー—科学をすべての人に (オックスフォード科学の肖像)

「オックスフォード 科学の肖像」シリーズが、クリスマスに合わせてファラデーの巻を刊行。
このシリーズ、割と手堅く固まっているけれど、「グレート・ディスカバリーズ」に比べると全体的に艶のようなものが足りないかなあ。写真も豊富に入っているが、読書の喜びはあまり感じられない。でも取り上げられた人物の人となりについては、まさに手堅く理解できる。

ファラデーというとクリスマス講義の「ろうそくの科学」が有名で、科学コミュニケーションの代表例のようにいわれるのだが、なんと当時、科学講義で絶大な人気を博していたハンフリー・デーヴィという物理学者がいて、ファラデーは青年期にこの講義を聴いて大感激して彼に弟子入りし、そこから科学者人生をスタートさせているのだ。なるほど、「ろうそくの科学」は彼のタレントひとつで出来たものではなく、先達の強い影響下でつくられたものなのだ。
なんとなく、科学コミュニケーションの仕事をする人にとって勇気づけられる話である。
(でもデーヴィは後年になってファラデーの科学者としての成功を妬んだようだ)

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ブレイン・マシン・インタフェース—脳と機械をつなぐ/ブレイン・デコーディング—脳情報を読む

最近では研究者が何かムーヴメントをぶちあげたいと思ったらまず立花隆を呼んで説明し、彼がわからなかったらしゃべり方の対策を考えて、立花隆が食らいついてくるまで練り直すそうである。うーむ、なるほど、その意味で立花隆は日本の科学技術に大いに貢献しているといえますな。

「脳を活かす」研究会の分科会「脳を繋ぐ」「脳を読む」の講演録をまとめたもの。「脳を繋ぐ」分科会当日の様子は、Robot Watchでもレポートされている(こちら)。
一冊5000円と高いし、内容も一般向けではないが、分野の勃興期にこういう本を出してくれるのは嬉しい。この「脳を活かす」研究会、なかなかおもしろい活動を次々と繰り出している(関係者の間では「脳を活かす」ではなく「女をイカす」の発音で「脳をイカす」研究会と呼ばれています^^;)。
世間では脳と機械をつなぐ「ブレイン・マシン・インタフェース」のほうが有名だが、私には「ブレイン・デコーディング」のほうがおもしろく思えた。ATRの神谷之康はイントロを担当。痛みの感覚の研究(柿木隆介)や、社会科学からのアプローチ(アダム・スミスの人間観と脳科学の関係)などが興味深い。
しかし社会科学のほうから脳科学へいくつか提言が出されているが、ここでいきなりつまらなくなってしまう。というのも、そこで掲げられている提言の多くはすでに自然科学者が取り組んでいるものだから。社会科学者の勉強不足が如実にわかってしまって、断絶が浮き彫りにされてしまうのである。これは自然科学者から社会科学へのアプローチでも同様と思われる。分野が違うと論文を検索する手間暇さえかけたくなくなってしまうのだよね。このへんの断絶感、どうにかならないものかと前から思っているのだが。

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大学教授の株ゲーム - 学者が書いた株式入門 (日経ビジネス人文庫)

バブル最中の1988年に「週刊新潮」で連載されたエッセイを、いったん新潮社で単行本化し、日経で2000年に文庫化したもの。たぶん当時といまでは株相場の状況もかなり変わっていると思われるが、文章が軽妙でおもしろい。著者のふたりは経済学者と数理工学者(金融工学、ないしは理財工学)で、たぶん文中のXが斎藤、Yが今野、連載一回ごとに交代で書いていたと思われる。特に今野の担当部分がとってもいきいきしている。今野は他にも『金融工学20年』や新書の『金融工学の挑戦』を読んだが、どちらもおもしろい。特に新書の『金融工学の挑戦』は、野口悠紀雄『金融工学、こんなに面白い』や刈屋武昭『金融工学とは何か』よりだんぜんお薦め。
最初の目論見では金融工学の基礎をおおむねカバーしようとしていたようだが、編集部からの助言もあったらしく中盤からはリアルタイムでの株ゲームの報告になってしまった。そっちもまあ楽しいのだけれど、当初の目論見通りに進んでいたら私のような経済音痴にもかなり使える入門書となったことは確実で、惜しい限り。個人投資家が増えた現在、著者ふたりの株ゲームに共感する読者は多いと思う。

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アインシュタイン—時間と空間の新しい扉へ (オックスフォード科学の肖像) /アインシュタイン よじれた宇宙(コスモス)の遺産

「オックスフォード 科学の肖像」と「グレート・ディスカバリーズ」シリーズの対決、第2弾。今回は「オックスフォード」がシリーズ最大の厚さ、対する「グレート」は科学者・サイエンスライターとしても著名なミチオ・カクという構図。
うむ、今回は互角と感じました。両者の書きぶりが大きく違うので単純に比較できないこともある。
「オックスフォード」版は正統的な伝記の体裁。著者はアインシュタインには会ったことのない物理学者。しょっぱなから数式を記しているのはなかなかチャレンジングで、一般読者に嫌われることを覚悟できちんと数学で語ろうと努力した跡が見られ、それはそれで好印象である。一方のミチオ・カクは、いままでさんざんアインシュタインについて書いてきたこともあるのだろうが、記述を大胆にも3つに絞っている。「この本では、アインシュタインの科学的イマジネーションが生み出した物理学的イメージを軸にして、彼の思考の過程と業績を紹介していこうと思う」。その記述の中にアインシュタインの生涯を織り込む仕組み。
ミチオ・カクはいつもおおむね似たようなことを書いているのだが、繰り出すたとえ話を少しずつ変えることで新鮮さを提供する術に長けている。本書でもその才が存分に発揮されていて、彼の愛読者なら安心して読める。「オックスフォード」版はお世辞にも洗練された記述とは言い難いが、著者の格闘の軌跡をこちらも追体験するようで、ちょっと不思議な達成感があった。

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リーヴィット (グレート・ディスカバリーズ) (ハードカバー)

原題は『Miss Leavitt's Stars』、つまり本書はヘンリエッタ・リーヴィット本人ではなくてリーヴィットが見たセファイド変光星が真の主役。
ハーヴァード天文台で天体観測の写真乾板から星の地図づくりの仕事を請け負っていた「コンピュータ(計算技師)」の女性リーヴィットは、星までの距離の測定方法を見出す。それまで宇宙を測る方法は、三角測量法しかなかった。しかしそれだと遠い星では視差が小さくなりすぎてうまく測れない。だからあの星とこの星の相対関係を論ずることはできても、夜空に浮かぶ星雲が遠い銀河なのか、それとも近い位置にあるただの星の塊なのか、はっきり距離をいうことはできなかった。その問題を解決したのがリーヴィットの発見だが、彼女は病気がちでほとんど公的記録も残っていない。しかし著者は「一冊の本にするにはあまりに情報が少ない。それでも、この人には語り継がれるだけのものがある」として「私は彼女の物語を記すことにした」。
著者は『量子コンピュータとは何か』などのジョージ・ジョンソン。「グレート・ディスカバリーズ」既刊3冊の中でもとりわけ薄い本なのに、精緻な文章のため読了までには時間がかかった。本書はいわばリーヴィットへの挽歌のようなものである。本書の記述の多くはリーヴィット本人よりもシャプレーと カーティスの島宇宙論争、ハッブルの業績などに割かれている。リーヴィットの晩年についてもほとんど資料がないのだろう、とつぜん彼女の死に言及があり、彼女をノーベル賞に推挙しようとした人もいたようだが当時の天文台長であったシャプレーは彼女の業績を軽視していたことなどが記されている。
カバージャケットに彼女の写真が大きくあしらわれているにもかかわらず、彼女の影は薄い。本書に書かれているように、セファイド変光星のことは彼女でなくても後年に誰かが発見したことだろう。本書の主役は星である。だからこそ読者は墓碑銘の前へ偶然にも佇むことになった旅行者のように、本書から万感の思いを感じ取り、小さな熱い炎を胸に灯す。

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生命とは何か—物理的にみた生細胞 (岩波新書 青版)

おお、再刊されているではないか!
こないだ理研GSCの講演でこの本を紹介したときは古本もほとんど出回っていなくて、数千円もはたいて購入したというのに。
また品切れになって後悔する前に、いますぐ買っておこう!

ヒトゲノムプロジェクトのきっかけをつくった日本の和田昭允は、これを読んで「物理帝国」→「生命王国」の間に橋渡しとして「生体高分子」という中間項を挿入した。その思想は現在の「Omic Space」構想なんかにも受け継がれていると思う。
物理と生命の間に何を入れるかで、その研究者のセンスがわかる。実はシュレーディンガーが本書『生命とは何か』で挿入した橋渡しはエネルギー、エントロピーだったのだと、最近になってようやく再認識した次第。なるほどね。
あなたならどんな中間項を入れますか?

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桜坂洋+東浩紀「キャラクターズ」

「この作品は、『ギートステイト』よりもはるかに売れないが、しかしはるかに話題になり」……ふーんそうなんだ?
 『ギートステイト』対談の準備として読みました。が、『ギートステイト』とぜんぜん関係ないじゃん! 
小説は「私小説」と「キャラ小説」に分けることが可能といわれれば、なるほどそうかもと思う。それでライトノベル分野の作家が「私小説」に走って文学的な評価を受けている現状(?)に鬱屈した批評家と作家が、それに反旗を翻すべく新たな「キャラクター小説」を宣言しようとする……という小説風評論風小説。桜坂洋と東浩紀の合作。
読みながら、なぜ自分は「私小説」も「キャラクター小説」もあまり好きじゃないのかわかったような気がした。私小説というのは「私」を書いているわけだけれど、周囲の社会から完全に切り離された「私」というのは本来ありえない。でも私小説は「私」を書きたいので、周囲の社会を「私」から切り離して、いわば社会をキャラクター化して済ませているのではないか。一方の「キャラ小説」は、結果的に登場人物を社会から切り離すことによって、二次創作その他を可能にさせた小説といえるのでは?
つまりその意味で「私小説」と「キャラ小説」は表裏一体の関係にあるのではないか。人と社会は本来切り離せない。しかし人間の認知限界に依存した娯楽性を重視するために社会をキャラ化してわかりやすい敵や憤怒の対象をつくるのが「私小説」。社会の営みや人生といったものから人を完璧に切り離し、キャラ化して自由に遊べるようにしたのが「キャラ小説」。私が面白いと思う小説はそのどちらでもなくて、人も社会も安易にキャラ化しない小説なんだなと再確認した。
たとえばトールキンの『指輪物語』なんかは舞台も登場人物もきわめて類型っぽいのに、読んでみるとまるで「キャラ」という感じがしない。これで人物と舞台のどちらかでも書き割り調になっていたら、たちまち物語はつまらなくなるだろう。確かに読者はトールキンの与えてくれた素材から「キャラ」を抽出できるのだけれど、そこで取り出された「キャラ」は本家のごく一部にしか過ぎず、本家本元はまるで揺るがない。それはつまり『指輪物語』が「私小説」でも「キャラ小説」でもないから。物語のどこもキャラ化していないから。そんな緊張感、ダイナミズムが私は好きなのだろうなと思ったのだった。
でもいろいろな話が伺えそうで、対談は大いに楽しみです。

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ウィニーの物語—世界で一番有名なクマ

うーん。
世の中には、すごく面白くなりそうなのに郷土だけで留まっている題材がたくさんある。その郷土に生まれ育った人なら、その題材を本にしてみたいと思う。そうして一冊の本が世に出る。ただしそれは往々にしてとてもつまらない本になり、題材そのものの輝きにさえミソをつけてしまう。これはそんな無数の本のひとつだ。
A・A・ミルンの童話やディズニー映画で有名なくまのプーさんは、ロンドン動物園の人気クロクマ「ウィニー」がモデルになっている。そのウィニーを猟師から買い取って育てていたのはカナダ人獣医将校ハリー・コルボーンだった。彼はウィニペグという町で小熊を買ったので、町の名にちなんで「ウィニー」と名づけた。ウィニーは軍人たちの人気者になるが、第一次大戦が起こり、ハリーはウィニーをロンドン動物園に預ける。
この本は、ハリーとウィニーの生涯を記した本だ。しかし書かれていることはたぶん他の本からの引用や要約ばかり。著者は自分の足で関係者にインタビューしただろうか? いきいきとした会話や情景を盛り込もうと心がけただろうか? 正確さを求めすぎてどんどん文章から精彩が失われていることに気づかなかったのだろうか? 
翻訳者はウィニペグに滞在経験を持つ人で津田塾大学英文学科卒。きっと当地でこの本を知り、情熱に駆られて翻訳しようとしたのだろう。しかしあとがきで軍事用語の訳語に難儀したなどと書いているとおり、プロフェッショナルな仕事ができていない。ぼんやり読んでいたのでは何が書かれているのかわからない日本語が続く。たぶん原文もあまり滑らかではないだろうから、仕方がないのかな……。原著にはない写真を多く盛り込んだと書かれているから、その熱意は伝わってくるのだ。きっと訳者にとっては思い入れのある本なのだろう。しかし……。

地元の郷土史家が書いたこの手の本で、私が自信を持ってお薦めできる一冊は、Norman M. Covert "Cutting edge: A history of Fort Detrick, Maryland"である。細菌兵器の開発をおこなっていたアメリカのフォート・デトリックについて書かれたものだ。NIHの研究者たちもこぞって太鼓判を押すすばらしい内容で、留学中に夢中で読んだ。あの本、翻訳は出ないのかな。

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愛と哀しみのル・コルビュジエ (建築文化シナジー)

イラストレーターの著者が、建築家ル・コルビュジエについて調査し、語った本。前半は文章が主体で、正直なところここは著者の思いばかりが前に出すぎて、なかなかル・コルビュジエの全体像がわかりにくい。注釈が多すぎるのも読みにくいかなあ。
しかしマンガ形式の後半になるとすべてが輝き出す。ナンジェセール・エ・コリのアパルトマン(余談だけど、この道って大西洋横断に挑戦したふたりの名前だよね)から仕事場へ向かうル・コルビュジエ。弟子のクセナキスに修道院の設計を任せるル・コルビュジエ。そしてインドのチャンディーガルに大都市の構想を描き出すル・コルビュジエ。それぞれの空気感が本当にすばらしくて、ル・コルビュジエのことなんて何も知らない私でもこの建築家のことが好きになってしまった。
著者にはまるまる一冊イラストとマンガだけのル・コルビュジエ本をつくってもらいたいなあ。

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ニッポンの境界線

〈境界知〉の提唱者のひとりとして、この本を見逃すわけにはいきません。「太平洋」と「日本海」の境界、「辛口カレー」と「甘口カレー」の境目など、日常の中にひそむ曖昧な概念に、アンケートや調査などでくっきり境界線をつけてみようという企画。雑誌「広告」連載記事とのことで、ネーミングやちょっとしたいいまわしが面白い。マーク・タイラー・ノーブルマン+都恋堂『ちがいの分かれ目』(小学館)よりずっといいです。
確かにウインナーとフランクフルトとボロニアの境界なんて、飲み屋の小話に使えそう。なかでも面白かったのは視覚や味覚などを試す五感系(青と緑の境界、カレーの味の境界)と、風俗・コミュニケーション系(合コンと飲み会の境界、モテるおごり額の境界、脈ありレスメールの境界)。
しかし私はケータイ電話をぜんぜん使わないので、脈ありレスメールの境界には改めてカルチャーショックです。大学生や20代の境界は1時間以内……。「俺、2時間以内に返事がこないと、モチベーションが下がる。(中略)あ、もういいかな、みたいな」と語る大学生男に戦慄。即レスは大学研究者、という印象なんですが。30代なら1日未満まで延長、って、それでも1日かよ!
「こんな程度の額をおごったくらいで、私を口説くつもりなの?」額の境界は4000-5000円、「おごってもらってうれしいな。この人素敵だな」の額の境界は10000円、「そんなにおごっていただいても困りますぅ…」額は13000円だそうです。7000円前後のおごりが好印象、って都会の男たちはそんなに支払っているんですか……。
合コンより飲み会と銘打ったほうが成約率が高いという話に、へぇ〜、なるほど、と声を上げる。

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物理学者、ウォール街を往く。—クオンツへの転進

これはおもしろかった。素粒子理論の研究者から金融工学の道へ転身した人物の自伝。本人も強迫観念症気味のところがあると告白しているように、彼自身がとてもこだわっているところとそうでないところの差が伝わってくるのだが、全体を通して清々しい印象を与えるのは、やはり彼が科学者の立場で社会に貢献しようと考えているから。クライマックスはフィッシャー・ブラックとの関わりを綴った部分だが、それ以外も充分に惹きつけられる。各章のタイトルもセンスがあって素晴らしい。
仕事がうまくいかない時期はシュタイナーにはまったり、ゴールドマン・サックスを飛び出してソロモン・ブラザースに転職してみるものの完全に失敗したりと、決して順風満帆ではない。彼自身はある種の典型的な物理学者だと思うが、彼自身の人生はとても人間くさい。そのバランスが絶妙に表現されている。
途中、彼がエルヴィン・シャルガフやシュレーディンガーの著作に共感を示すあたり、びっくりしてしまった。つまりこの本は、金融工学の本ではあるけれど、「生命とは何か」という本質をずっと考え続けていたい人にとっては人生の指針となるような本だと思う。生命を本当に解き明かすのは、もしかすると金融工学者かもしれない、と思わせる一冊。

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仕事で燃えつきないために—対人援助職のメンタルヘルスケア

科学コミュニケータ(ないしは科学ファシリテータ、科学を伝える人、なんでもいいが)はバーンアウトしやすい、だから燃えつき症候群に対するしっかりしたケアが必要、ということを、私は日本科学未来館ができたころからいい続けている。科学を伝えることは正しいこと、自分がやらなければならないことなのだ、という正義感や義務感が生じてしまったとき、「燃えつき」が生じやすい。つまり科学コミュニケータは教師や看護師、ソーシャルワーカーなどと同じく対人援助職であり、だからこそメンタルケアが必要となる。
いま、科学コミュニケーションは一種のブームのようなものとなりつつあり、10年前とは隔世の感がある。しかし今後、必ずそこに関わった人たちの「燃えつき」問題が顕在化してくる。どうか科学コミュニケーションを推進する人たちは、メンタルケアへの充分な配慮をお願いしたいし、また科学コミュニケーションに関わる人も一度はこういう本を読んでおくのがいいと思う。

さて、実は作家というのもひとつの援助職であり、だからこそ「燃えつき」が起こるのではないかと私は考えている。作家というとわがままし放題で、編集者がなだめすかして原稿を書かせているというイメージがあり、表面上はその通りなのだが、実際は作家側がものすごく編集者に対して気を遣っている。編集者がいい気持ちで仕事に打ち込んでくれることが作家にとっての生命線であるから、わがままをいって手を焼かすのも編集者に対する一種のもてなし、援助だと考えることができる。一方で、編集者の仕事環境を整えてやるのも援助のひとつとなる。つまり作家は作品で読者をもてなす対人職であると同時に、編集者をもてなす対人職でもあって、その両方は自分の収益に直接跳ね返ってくる。だから「燃えつき」が起こるのではないか。
また、一作ずつ全力を投入するようなタイプの作家は、作品ができるごとに燃えつきていることになる。その燃えつきが編集者や読者からの高評価となって戻ってくれば次のやりがいにつながるが、そうならない場合の喪失感は大きいだろう。
私自身、ともすれば燃えつきが起こりやすい性格であることを自覚しており、制御に気を配るようにしているが、うまくいっているかどうか心許ない。たとえば私の場合、すでにSFに関しては燃えつきてしまったと思う。SFに関しては何をやっても「あいつは仲間内でないから」という理由によって否定評価しか返ってこないわけで、つまり私はSFに関しては、SFへの対人関係に失敗し、とうの昔に燃えつきて死んでしまった。ただ、SFに関してきちんとスーパーバイズしてくれる人が当時ひとりでもいたら、私の人生は違ったものになっていたかもしれない。
せめてこれから小説を書く人には、そのような事態に陥ってほしくないと思う。もっとも、そんなことを考えることさえ不遜との意見もあろう。

燃えつきを回避し、援助職(科学コミュミケータや作家を含む)を続けてゆくためには、ある意味毎日の仕事で力を抜くことが大切となる。さて、読者の皆さん、あなたはテキトーに書かれた小説を読みたいですか? そういった小説を、あなたはどのように評価・批判しますか? という問題がここで立ち現れることになる。
本書の最後に書かれている「援助職をつづけてゆくために」の内容は、その意味で大切である。ここに書かれていることは『境界知のダイナミズム』で希望として掲げたことと表裏一体なのだと思う。

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破顔

なるほどチャーミングなエッセイ集である。日経新聞のエッセイ欄「プロムナード」に連載された25篇を収録した本だが、そこかしこの間合いが心地よい。装幀や随所に折り挟まれたかつての西部劇俳優たちの「破顔」の写真、あとがきの佇まい、そしてなにより長塚京三のエッセイ自体の間合いである。一行目から彼の「声」が始まり、半ばで唐突に脈絡の切れた話に飛ぶかと思うと、それさえも著者の呼吸のひとつで、最後には想念がつながっていたことがわかる。笑ったときのバート・ランカスターの顔や、美男だからこそヒッチコックに重用されたケイリー・グラントなどを語るときの上機嫌ぶりは上品で清々しい。口は一つ、というエッセイが殊に心に残った。

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民俗誌を織る旅

それまで読んだことのなかった作家の本に向かおうとするとき、その人の代表作や力作と呼ばれるものにはどうも手が伸びにくい。多くの場合、私はまずエッセイ集や対談集などから入ってみる。当人もさほど力をこめていない、むしろ書き散らかしたような文章を無心で読んでゆくことで、その人の呼吸が伝わってくる。つまりそれは、その人の声を聞くようなものか。むろん実際に声を聞いてしまうと読み方がかわってしまうものだが、エッセイの場合は結局のところ読み手が勝手に創り上げた声なのだから差しつかえない。つまり相手のリラックスした文章を読むことで、こちらをリラックスさせるのである。この時点で気分が乗らなければ物別れとなる。
そういうわけで、赤坂憲雄をこれから読み進めたいと思い、ウェブ書店で彼の著書をあらかた購入し、さてどれから始めようか(実は『異人論序説』はすでに読んでいる)、となって、まずはオビに初エッセイ集とあった本書を開いた。

特に前半の、民俗学における聞き書きについて述べた部分や、東北芸術工大学に移り『東北学』などの雑誌を立ち上げてゆく辺りに惹きつけられた。私は民俗学の聞き書きについて、これまで誤ったイメージを持っていたような気がする。「人は民俗学者になるとき、避けがたく空虚な言葉の群れとの訣別を強いられる」「聞き書きとは何か、と問うことは、民俗学の無意識を揺さぶることである」といった発言に接し、そうかと思った。実は私はこれまで『仙台学』を読んで、巻を追うごとにつまらなくなってゆくような気がして、自分の感覚が民俗学と相容れないためかと思っていた。しかしひょっとして赤坂さん、あなたが雇っている編集者たちは、単に民俗学のまねごとをしているだけ、単に聞いて書くというその行為を自動化しているだけではありませんか、と尋ねたくなった。本当の民俗学が為し得るおもしろさは、もうあなたの『仙台学』にはほとんどないのではありませんかと。

「いかなる記録の手法がありうるのか。聞き書き、ルポルタージュ、自分史、民俗誌……。その手法は多様であっていい。それぞれの現場にあって、創意工夫が凝らされていていい。そこに生きてある人々の声に、ただ謙虚に耳を傾けることだけを、ひそかなる仁義と心得ておくことにしよう。それぞれの現場から、記憶の海の底深くへと、いくつもの記録の垂鉛を降ろさねばならない」

なんだ、ここにすでにマニフェストが書かれているではないか。いま東北の編集の現場に、ここで宣言された「創意工夫」や「謙虚」さや「仁義」はありますか、と窓から見える真夏の空に問いたくなる。

ロボットの民俗学が必要だろう。科学の民俗学も必要だろう。民俗学をやっている人は、農村に入り込み、農家の老人の話を聞くかもしれない。しかし彼らは科学の現場に入り込み、そこに生きる人たちの話を謙虚に聞き、聞き書きをすることはほとんどない。また、仮に私のような人間が彼らを科学の現場へ連れてきたとしても、科学の世界を民俗として見てもらえることはまずない。かしこまり、縮こまって、科学者をタブーの領域に押しやるだけだ。
ひとつひとつのロボットの声を聞き書きする人が必要だろう。たぶん、ごくわずかなジャーナリストだけが、そういった仕事を(民俗学のことなど知らずに)続けている。
そして逆に、民俗学の中へ科学者や技術者は入り込んで行けるだろうか。たぶん民俗学が科学に入ってゆくのは、あと数十年でできるだろう。だが逆は難しいだろう。なぜ難しいのかを考えることは大切であるような気がする。

さて、『異人論序説』がこの著者にとって、むしろ青春の産物であったということがわかったのが、少し嬉しかった。「遅すぎた卒論」「研究書の類とは、まるで無縁の場所で紡がれた、自己を癒しに導くためのモノローグにも似た物語の書」という記述を読んで、自分自身のある本を思い浮かべた。それはまさにそのような本となったが、『異人論序説』とはまったく違って、何の評判にもならなかった。才能と青春の経験の差というものだろう。

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進化の特異事象 (オンデマンド)

エキサイティング。原題は「Singularities: Landmarks on the Pathway of Life」(2005)で、著者はクリスチャン・ド・デューヴ、なぜかこの邦訳は「クリスティアン・ド・デューブ」表記なので、検索でも引っ掛かりにくい。邦訳が出ているとは知りませんでした(注文に応じたオンデマンド出版らしい)。邦訳は出ていないと思って原著を買ってしまったよ。
ド・デューヴは細胞分画法の研究でノーベル賞を受賞した生化学者で、筆も立ち、アメリカ国内では『細胞の世界を旅する』などベストセラーも飛ばしていて、知性溢れた細胞生物学の一般書を書くことで有名。しかし本書はおそらく彼が初めて書いた上級向けの一般書で、ばんばん有機化学用語が出てくる。生化学を大学で学んだ人でないとたぶん読めません。しかし面白いのだこれが!
レイ・カーツワイルや最近の海外SFがいうところの「シンギュラリティ」(特異点)とは、まあ「100匹目のサル」みたいなもので、テクノロジーの急速な発展によって人間の生活が後戻りできないほど劇的に変容してしまうような未来のことを指す。しかしド・デューヴはさすが科学者、そんな雑な話はいっさいしません。たとえば化学物質には右手と左手の関係のように、同じ組成でも立体構造の違いが存在することが知られている(鏡像異性体)。しかし地球上の生物では、どちらかは栄養になってもどちらかは毒になるといったことが起こるし、どちらかは使えないという場合もある。なぜRNAはD-リボースでつくられているのか。なぜL体ではないのか。他にも、地球上の生物の生体膜はみな同じ基本構造でつくられている。これが進化上の「シンギュラリティ」である。本書はこういった「シンギュラリティ」がなぜ生じ、現在の生物に至ってきたのかを、有機化学の知識を駆使しながらひとつひとつ考察してゆく本で、ここまで徹底して、しかも総括的に書かれた本はなかったのではないかと思う。
シンギュラリティを生み出す仕組みは7つある、とド・デューヴはいう。その図が表紙見返しに印刷されている。左端は決定的必然。そして右端はインテリジェント・デザイン。そして生命進化のシンギュラリティは、この両端の間で起こったとド・デューヴは主張する。たとえばある現象はサイコロを振るように偶然決まったものだろう。ある現象は内的ないしは外的な環境要因で出口が窄まり、関所ができて、ひとつだけがその関門を越えたのだろう。ある現象は他の選択肢が自然に絶滅したり消え失せたりすることによって残ったのだろう。ド・デューヴはこのように考える。とてもわかりやすく理にかなった思想である。基本的な有機成分は宇宙から来たが、チオエステルやピロリン酸は火山から来た、という主張も面白い。多くの専門家に査読してもらったようで、スノーボールアース仮説などド・デューヴの専門外からの知見も多く取り入れられており、記述は充実している。一見薄い本だが、かなり読みごたえがあって、私も数日かかりました。読み終えるとへとへとになります。
生命起源に興味のある人は必読で、小説家ならここからさまざまなアイデアを得ること間違いなし。巻末の参考文献一覧もよいものが揃っていて極めて有用。

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夜間飛行

デビュー作『南方郵便機』(1929)と第二作『夜間飛行』(1931)を収録。読了してから少し経ってしまったので、ここでは簡単な感想のみ。
『夜間飛行』は素晴らしいね。リヴィエールのかっこよさは比類がないが、飛行機乗りの人たちが無線というものをいかに考え、感じ、そして自分たちの肉体・精神にしているかがわかる。この感覚に一度でも触れてしまうと、やはりこの21世紀にあってはあまりにも時代遅れにも思える航空無線のコミュニケーションを捨て去ることはできないのかもしれない。彼らの孤独は人間社会とつながっているのだ。つまりここでは人と社会の強靱さだけが描かれている。しかし一方で強く思ったのだが、読み手はいくらでもここに記された描写をロマンチシズムやセンチメンタリズムに変換できてしまい、むしろ場合によってはそれらだけが心に残ってしまうということなのだった。それが人間の心なのだ。
『南方郵便機』では、モロッコの描写がやはり私の目に飛び込んでくる。「カサブランカは、青空に向かって呼吸していた」など、なるほどと思う。
どちらの作品にしても、ここに登場している人物を動かしている原理は「人間社会」なのだろうと思う。彼らは単なる冒険で空を飛んでいるのではなく、他人が大事にしたためた手紙を運ぶ、社会の役に立つルートを確立する、といった使命を負っている。彼らは自由を求めて飛んでいるのではない。だから靱さがある。背負っているからこそ、極限の状態で自分の生存をぎりぎりまで追い求める。だからこそついにすべての背景が消えてただ自らの生存を求めてゆく瞬間になって、そのあり方が人間である読者の心に響く。背負われた社会をこちらが感じるかどうか、そしてその重さをどう感じるかによって、物語の印象は大きく変わるのかもしれない。
「勇気というやつは、大して立派な感情からできてはおりません。(中略)肉体的な力の激昂はたいしたものですが、これはあいにく何の役にも立ちません。(中略)今後僕は、単に勇気があるというだけの男なら絶対に尊敬しないつもりです」(『夜間飛行』序文でアンドレ・ジイドが引用したサン=テグジュペリの言葉)
「ベルニスよ、君にいま必要なものも実はやっぱり勇気ではあるまいか?」(『南方郵便機』)
この両者の内容は矛盾しない。

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温泉旅行記

タイトル通りの本。恐縮ながら著者のノンフィクションをしっかり読んだのは初めてだったが、なるほど紀行エッセイはこう書くのか、と目を開かされることしばしば。とろとろとした湯、という表現や、長いエッセイをラスト一行で握り込むようにしてまとめるワザ。収録されているエッセイそれぞれ書きっぷりが違っていてお得感があるが、しかし山口瞳や壇一雄など作家たちへの思いが通底して描かれることで、文学好きであるはずの読者の心が満たされる。温泉のにおいのまま帰途につき、新幹線に乗ると晴れがましい、という文章も2度出てきて、うん確かにそうだなと思った。

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星の王子さまの眠る海

1944年7月31日正午少し前、ロッキードP-38ライトニングで偵察飛行に出発したはずの作家サン=テグジュペリは行方不明となった。彼は地中海に墜落したものと思われたがその地点はまったくわからず、そして彼は伝説となった。
ところが1998年9月7日、マルセイユのある漁師が、トロール網にかかっていたコンクリーションの中からサン=テグジュペリの名が書かれたブレスレットを発見、この情報をもとに近隣を捜索したところ飛行機の残骸も見つかった。本書はその捜索に深く関わった日刊新聞社の記者が、協力してくれた歴史家や写真家らと刊行した顛末記で、2004年に偵察機の残骸から民間登録番号を見つけ、それがサン=テグジュペリの乗っていた飛行機と一致することを突き止めるまでが書かれている。
読みやすい文章で書かれているが、熱狂に乏しい。遺族が調査に渋い顔をしていたとか、偽物じゃないかと疑われていやな思いをしたといったことも書かれているが、まあそうだろう。機体が発見されてもサン=テグジュペリのファンは喜ばないのだろう。実際、本書を読んでも描写が全般にわたってすんなりしすぎて軽い感じなので、すべてがインチキなのではないか、あるいはどこかでとんでもない思い違いがあるのではないか、という疑念を拭いきれない人もいるのではないか。機体の損傷が激しいので、結局なぜ墜落したのかもわからない。
ただ、50年も前の飛行機をどのようにして特定してゆくのか、そこのところは興味深く読んだ。
発掘調査というのは、人の熱狂によって左右されるのだなあと実感した。

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人間の大地

モロッコ飛行旅行から帰って、サン=テグジュペリを再読したいとずっと思い続けてきた。「小説宝石」誌での旅行エッセイ連載を書くときでさえ、その思いは果たせなかった。そこでこれから少しずつ読んでゆくことにする。本作は文庫版ではなくみすず書房のコレクションで読んだ。
サン=テグジュペリのルートの一部を自分でも飛んで、こうして再読して驚いたのは、まず著者の描いている飛行風景が以前よりはっきりと私の脳裏に浮かび、ヴィヴィッドに作品が心に届いてきたということだった。

この『人間の大地』は『南方郵便機』『夜間飛行』に続く1939年の刊行であり、当時の飛行士アンリ・ギヨメやジャン・メルモーズらの逸話と同時に、著者自身の経験が、半ば誌小説風に、半ばドキュメンタリー風に、そしてときには熱い精神の迸りのような、つまり一種の詩やアジテーションとして描かれてゆく。ジャンルの分類が難しい作品である。ときおり具体的な高度や航行速度の記述があり、自分の飛んだ経験と照らし合わせて、感覚がわかった部分もあった。たとえば私はオートアトラス山脈を越えるときセスナ172で11500フィートまで上がったのだが、これでもエンジンはかなり厳しく、ミクスチャーを何とか調整していっても私の技量ではなかなか自在には上昇できない。薄い大気に底打ちされたようで、私は飛行機と共に息苦しささえ感じたのである。しかし本書で書かれている飛行機は当時でさえさらに高い高度へと飛んでいる。メルモーズは約15000フィートを上昇限度とする飛行機でアンデス山脈を越えているのである。

4章の「飛行機と地球」は、「飛行機は一個の機械にはちがいないが、しかしなんという分析の道具だろう!」という一文から始まる。ここから始まる2ページ分の感覚に、ようやく自分でも触れた気がした。ここには「飛行機とともに、わたしたちは直線を知った」という有名な一節があり、確かにその通りなのだが、しかし私自身が飛んで強く感じたのは、曲がりくねった人間の道もが、そして四角く輪郭を残し密集する土の家たちまでもが、上空からは大自然の巧みな造型のように見え、人間社会もやはり自然科学の一部なのだということなのである。これが理屈でなく実感として心に刻み込まれたのだ。51ページに「その結果わたしたちは、物理学者や生物学者に変貌して、谷間の奥に風趣をそえ、ときには奇跡のように、風土に授けられたその場所に、庭園さながら咲き乱れているそれらの文明を調査することになったのだ」という文章があるが、これは詩的に響くようにつくられた言葉ではない、目に見えたありのままの感覚なのである。だがさらにつけ加えておきたいのは、そうして見下ろした人間の文明は、見つめている飛行士自身を決して切り離すのではなく、自分さえもその観察の対象へと運んでゆくということなのである。

サン=テグジュペリはよく不時着する。彼の操縦技能がまずかったのか、当時の飛行機の性能の問題なのか、わたしにはまだわからない。不時着したとき、彼は内省する。訳者あとがきに、サン=テグジュペリはアンドレ・ジイドが翻訳したジョウゼフ・コンラッドの『颱風』や『海の鏡』を読んでいたとあった。コンラッドが海を描いたならばサン=テグジュペリは空を描いたと単純には図式化できるわけだが、私はコンラッドもサン=テグジュペリもまだ充分に読み込んでいないにもかかわらず、個人と社会の関係をこのふたりがどのように描いたのかという問題に強く興味を惹かれた。
訳者あとがきにこうある。「ジッドは、飛行家の「感覚、信条、知性」を挙げているが、むしろわたしは、サン=テグジュペリに特徴的な《夢想》や《思い出》、およびそれらに伴う《内省》に注目したい。『人間の大地』のなかには、この自然的能力にたいする言及がいくつも見られる」と。たとえば7章「砂漠のただなかで」でそのような内省が記される。
つい先日、ある科学者からこのように訊かれた。「ところで、瀬名さんが最近「Beyond imagination!」って感じた瞬間ってどういう時でしょう? やっぱりコクピットから見えたすごい風景とかでしょうか?」
パイロット免許を取る前、私は訓練を受けるに際して、自分がどのように変化してゆくだろうかと想像を巡らせていた。空を飛ぶことでいままで見えなかったものが見えるようになるだろうか。新しい感覚を獲得するだろうかと。しかし訓練を受けるにつれてむしろ自分が感じたのは、自分がまったく「安全」というものを想像できていなかったということだったのだ。私が自分に驚いたのはむしろそのことだったのだ。パイロットは何よりも乗客の安全を考えて飛ばなければならない。私が取得したのはプライベートパイロットの免許であるから、飛行機が落ちても死ぬのは私ひとりだけだ。しかしさらに勉強を続けてゆけば、もっと大きな飛行機を操縦するようになり、そこには必ず他者が同乗する。自動車の教習を受けたとき、私はそんなことを一度でもきちんと考えただろうか。考えていなかっただろう。しかしパイロットになるということは、安全を意識できるようになるということであり、そのことは私の想像を超えていたのだった。

サン=テグジュペリは内省をする。そして個人としての自分と、大地や夜空との関係に思いを馳せる。それは広大な砂漠に降り立ったというシチュエーションを考えれば、とてもロマンチックなことだろう。だが彼はどこかで自分が背負って飛んでいるもののことを考えていたはずではないか。飛行とは自分ひとりだけのものではない。常に誰かのものでもある。彼はその背後に背負うものを意識していたからこそ、個人としての自分と自然との関係を、このような内省として書き残すことができたのではないだろうか。そのことを思うとき、彼の内省は単なるセンチメンタリズムとはまったく逆の表情を見せ、こちらに迫ってくるような気がしたのだった。
(このメモは加筆訂正のうえ商業原稿にする可能性あり)

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老化はなぜ起こるか―コウモリは老化が遅く、クジラはガンになりにくい

原著刊行は1997年、いまから10年前の本をようやく読んだ。しかし弁解するわけじゃないが、この本はいま読んでも充分に面白い。というのも老化に関する重要な考え方をきちんとおさえているからで、なるほどちょっとした細部には確かに古くなっている記述もあるものの、基本の方向性はいまでも通用するためだ。特に前半は快調で、老化と寿命を混同してはならないといった話をしっかり述べているのが素晴らしい。
後半、老化を進化論で説明しようとしているあたりはややハズしている部分もあるようだし、最後に付け足したメラトニンなどのサプリメントの話も古くなってしまっているが、でもサプリメントで老化を防げるのかといった話題は現在のコエンザイムQ10ブームととそのまま置き換えが可能。つまりスジがよくて、面白いのだ。老化について楽しく学びたいという人はまずこの本から始めるのがいい。著者はアイダホ大学動物学教授とのこと。

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生と死の自然史―進化を統べる酸素

ペーパーバックで気軽に読むべき良質のポピュラーサイエンス本や、たくさんの人に読んでもらうことを目的とした教科書を、なぜか渋いハードカバーで出す東海大学出版会のシリーズの一冊。悪くない本だとは思うが、ふつうの人は3800円も出せないだろう。
原題は「Oxygen: The molecule that made the world」で、酸素を中心に据えた進化論と生命論。この著者は後にミトコンドリアの本も書いているのだが、その興味の道筋も当然といえる(Natureでも最近ミトコンドリアの解説記事を書いていた)。
私は前半の生命進化の話が面白かった。原始の生命体はすでに高度な抗酸化メカニズムを備えていたはずだとか、シアノバクテリアの増殖による酸素ホロコーストの証拠は何もないとか。
しかし後半の老化や病気の話になると、著者は生化学出身であるはずなのに、どうも筆が鈍っているような気がした(こちらに予備知識があるせいかも)。情報もあまり整理されていないように思う。
でもここまで総括的に書いてくれた本はいままでなかったはずなので、充分に読む価値はある。巻末の文献一覧も役立つ。日本語の文章もこなれている(ただし未だに「インシュリン」表記になっているなど、医学系の表記は甘い)。

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小松左京のSFセミナー/未来からのウインク—神ならぬ人類に、いま何が与えられているか

前者は小松左京の語りを土屋裕氏が書き起こしたもの(1982)。後者はそれをもとに再構成した本(1996)。『SFセミナー』はSF大会の様子やら当時活躍中のSF作家の紹介やらも入っているのだが、そういったところは後者ではばっさり省かれていて、『SFセミナー』でいちばん気合いが入っている第六講「SFは文学の〝原形質〟だ!」がほぼそのまま後者の後半に再録されている(改行が増えている)。両者とも実は未読でした。
両者で展開されている小説論は、いま読むといたって正統な感じがする。 それどころか、拙書『境界知のダイナミズム』の展開とかぶるところもあって、冷や汗をかいた。
ひとつ思ったことがある。小松左京はこの論の中で、SFが持つ笑いの効用について力説していて、とても同意したのだけれど、これを読みながらなぜ自分が現代SFをあまり好きではないのかわかったような気がしたのだ。小松左京の述べている笑いとは、まずひとつは日本の古典芸能なんかにもある庶民的な笑い、エンターテインメントの王道としての笑いだと思う。時の為政者を批判する笑いもあっただろうけれど、でも基本は明るく理性的な笑いだと思う。もうひとつは「Divine Comedy」とか「人間喜劇」といったような意味での喜劇。人生経験を積まないとどこが喜劇なのかさっぱりわからないタイプの、人類を広い視野で観たときにはじめて顕れてくる力強い笑い。
私は文筆業になって早い時期から、誰かを見下すような嗤いはやめようと決意した。仲間内だけでウケを取って慰め合う笑いとか、スノッブなふりをして自分の地位を維持するためだけの嘲笑はやめようと思った。そういうことを書いたり、しゃべったりするのはやめようと思った。(2007.4.25に下書き。2007.6.18に修正し、2007.6.19にアップロード)

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世界史概観

大部の『世界文化史』(Outline of History、新潮文庫ほか)の後、ウェルズ自身が書き下ろしたコンパクトな通史(A Short History of the World)。
初版は1922年で、その翻訳版は岩波新書の赤版『世界文化史概観』。
第2版の刊行は1946年。第3版はウェルズ死後の1965年刊行で、近現代史を息子のG・P・ウェルズとR・ポストゲートが加筆。第2版を基本としつつ、第3版の加筆部分も訳出したのが現行の岩波新書青版で、邦題も変更されている。
前書きで書かれているとおり、初版のラストは国際連盟への希望をストレートに表現したもの。第2版は国際連盟の失敗を受けて、ウェルズ自身がへとへとになっているときのもので、その疲労感がそのまま人類の疲労として描かれている。第3版はそのへんをばっさり削除して、ニュートラルな結末になっている。
チェスタトンが『人間と永遠』(1925)で批判した「ウェルズの概観はプロポーションが悪い」という台詞は、初版に対してのもの。逆にウェルズは第2版のラストで、キリスト教のオルソドキシーを否定している。でも確かに、ウェルズのキリスト教観は、チェスタトンにとっては納得のいかないものだったろうなあ。
ぼんやりと思ったこと。これから脳科学が進んだら、人間がどういう状況・雰囲気のときにどれだけ本能を顕わにし、どれだけ理性を働かせるか、だいたいシミュレーションできてしまうような気がする。一定の人口で何割が理性的に動き、何割が動物的に動くか、とか。そうなったら、一つの社会的インパクトに対して、経時的に社会がどのように動くか、ラフにシミュレーションできるようになるだろう。ウェルズが目指そうとしていたことも、どのくらいまで現実味があったのかわかってくる。人類が一家族だという概念は共有されるようになっても、でも世界国家は実現しないことの理由が、そういうシミュレーションで実証されてくるのかも。
となれば、ここまでは社会が動くけれどこんなタイプの理想論はぜったいに無理、といったラインがわかってくる。一部では理想論が実現できるけれどその影響力はこの程度に留まる、とか。それがわかった上でも、人間はいつも通りにふるまうのだろう。そのへんが面白い。(2007.4.24)

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スタア・バーへ、ようこそ

穏やかで、ほっとするような語り口。決しておしつけがましくなく、でも著者のこだわりがほどよく伝わってきて、印象のよい本。
たとえばモルト・ウイスキーの上手な飲み方、味わい方という部分。まずはストレートで味わってみてください、そのときにこんなふうに飲んでみてはどうでしょう、と著者は持ってゆく。まず色を見る。そしてグラスを傾けて、ゆっくり酒を内壁に回して粘性を楽しむ。さらに香りを感じてみる。香りには方向があるから、自分がいちばん感じるところで楽しんでみる。このように、著者の描写は具体的で、しかも五感をほどよく刺激するように書かれている。それでもわかりにくいところだけ、ごく控えめな絵が添えられている。
科学書をよく読む人には特におすすめしたい。浮遊細胞を育てるときはcoster、接着細胞を扱うときならsumitomoのフラスコを使い分けるとか、研究でもそういったこだわりはあるでしょ。こういう感じで科学の本が書けたらよいのにと思う。

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レイ・カーツワイル加速するテクノロジー

『ポストヒューマン誕生』は厚すぎるので面倒になって放置中。こっちをざっと読んだ。
GNR革命なんて、こっちは10年前から小説で書いてますよ! といっても仕方がないのであった。こういうパフォーマンスをしないとウケないのはわかるが、やはり気になるのはカーツワイルが「安全」というものにまったく関心を払っていないということ。こういう革命が実際に起きたとして、本当はその裏で安全性に対して血の滲む努力をしてきた大勢の人がいるはずなのだが、そういう人たちの業績はなかなか語られない。「加速」するには「安全」を考慮しなければならない。だから「安全」を最大のキーワードにした未来像を読みたいのに。「安全SF」ってどこかにないのだろうか。
あと、こういう未来本は、書かれた当時のCG技術でイメージが規定されてしまうのだなあと改めて思った。10年後くらいには、きっと恥ずかしいCGになっていると思う。

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ウェブ社会の思想—〈遍在する私〉をどう生きるか

著者は1976年生まれ。東浩紀さんの弟子? 読むのは初めて。
「宿命」という言葉がキーワード。「「ある可能性が開かれると同時に、別の可能性が選び得ないものになる」という現象に対して、私たちが、「この選択肢でよかったんだ」と思えてしまうような根拠付けのことを、本書では「宿命」と呼ぶことにしたい。」情報社会では本当はウェブのあちこちに行けるはずなのに、行かない人が多い。あらかじめ定められたことと思ってしまうような事態が生じているのはなぜか。
でもこれはウェブ社会に限ったことではなくて、私たちは日本に生まれたので日本人という宿命を受け入れていて、よっぽどのことがないかぎり海外に移住しようとは思わない。人間の社会的知能が、このようなクセを持っているからだろう。
ウェブの中の分身も、自分そのままではないと思う。(^^;)こんな記号をメールにくっつけるのは、笑い顔が苦手な自分の変わりに笑ってくれる自分の分身をつくって、その分身に自分の役目を任せたいからだと思う。そうすることで、「本当の自分」が少し楽になって、解放されたような気分になる。
ふと読みながら思ったのだが、まだウェブ社会が形成されてから一世代も経っていないのだね。私たち人間は、成長と共に情報との関わり方も変えてゆく。このあいだ40代の女性の人と話していて、「自分」に対する考え方が20代からもずっと変化し続けてきたことを話してくれて、興味深かった。そういう個人的な成長と、情報社会のインフラの発展とを、私たちはときどき混同してしまうんじゃないだろうか。だから個人の成長過程にすぎないものが、ウェブ社会の発展とことさら関係があるような錯覚に陥ってしまうんじゃないだろうか。
宿命というのは、たとえば前回紹介した本に書かれてあったような、確率を試算し誤るといった人間の社会的知能のクセと深く関係するのだろうと思う。

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「情報」を学び直す

「くじ100本」問題と「三つの扉」問題を比較して、確率に対して人間がどのような錯覚に陥りがちかを論じているところが興味深かった。あと、フェルマーの定理はその解法を探る過程でいろいろ派生が起こった「ランドマーク型チャレンジ」だったけれど、4色問題は他の役に立たなかったから、ランドマーク型を目指すときは問題の設定が重要だというあたり。それに、「コミュニケーションとは何か」という問いに対していまだにシャノンの「情報」やチューリングの「知能」に相当するような歯切れの良い定義がないとか。
全体としてはごく初歩的な内容だが、ところどころで立ち止まって考えさせる部分がある。

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娘よ、ゆっくり大きくなりなさい―ミトコンドリア病の子と生きる

オビにある最相葉月氏の「親になりたいと初めて思った。」という言葉が改めて心に染み入る。読んでいる間、私も親になりたいと思っていた。
お子さんが生まれて、ミトコンドリア病の疑いが持たれてから、著者はわらをも摑むような感じでネット検索し、ミトコンドリアの学会に行き、図書館で本を探す。図書館で検索したら後藤先生らの『ミトコンドリア病』しかヒットしなかったとあるが、『ミトコンドリアと生きる』は見つけてもらえなかったのかもしれない。あるいは、いま自分の子がミトコンドリア病かもしれないというその切実さを、受け止めてくれる本だとは思ってもらえなかったのかもしれない。
リンク:日本ミトコンドリア学会 *ドクター相談室も設置されている。

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星新一 一〇〇一話をつくった人

読みごたえあり。全体の書評は商業紙用の原稿に回して、ここではもっとどうでもいいコメントを。
508ページの記述はすごいな。1001編のショートショートを書いても、星新一は何の文学的評価も得られなかった。「最後の一編は自分がこれまで書いたこともないような傑作が書けるかもしれないと新一はひそかに期待していたが、それは錯覚だった。一〇〇一編目にあたる九つのショートショート原稿を受けとった九人の担当編集者らは、物語の内容をほとんど覚えていなかった。(中略)掲載誌のコピーを渡して再読してもらい、「あ、この話ですね」と思い出す編集者もいれば、まったく記憶を呼び戻せずに困惑の表情を浮かべる人もいた」
……うわあ、このへんリアルに想像できて怖い。だが、星新一は本当に一〇〇一編目は傑作が書けるかもしれないと期待していたんだろうか。ここが断定記述なのがすごく気になる。それなら一〇〇一編目のネタはずっと前から仕込んであるとか、神がかったように書いていたなどという話があってよさそうな気がするが、淡々としている。眉村卓の一日一話だって、最終話とその前の回はすさまじい迫力なのに。

「朝日中学生ウイークリー」2007.5.20号 連載第14回

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これからレポート・卒論を書く若者のために

出ました、名著『これ論』の「レポート・卒論」編。
著者は進化生態学が専門の東北大学准教授で、「大学生のための情報検索術」という全学教育科目も担当しており、その講義をもとに作成されたのが今回の本。実は講義の前半は、このウェブサイトにある「東北大学生のための情報検索の基礎知識2007 基礎編」で、本書がその後半とのこと。前半をまとめた『理・工・医・薬系学生のための学術情報探索マニュアル』(丸善)もたいへんよい出来なので、すべての大学生は元祖『これ論』とあわせて3冊、座右に置いておくのがよろしい。

さて本書はまたしてもベガルタ仙台への愛を存分に語りながらレポート・卒論の書き方を見事に伝授してくれている。垢抜けないカバージャケットも健在……もはや芸の一部か。
とてもよいと思うこと。まずレポート・卒論は学術文書であると明確に定義、感想文や作文の類ではないと述べている。これ、すごく重要。実際、自分の生き方を述べたものとか、自分がたまたま知らなかっただけのことを調べてよしとするレポートがとても多いのだ。これはレポートを出題する教員の側にも実は問題があって、教員自身がレポートって何なのか、どのへんが採点の基準となるのか知らないことが多い。よって本書は助教以上の全大学教員の必読書でもある。
タイトルのつけ方についての指導も素晴らしい。これ、現役の研究者でもうまくない人が多い。序論については元祖『これ論』大改訂増補版でも詳細に論じられているので、ここで改めて読んで記憶を呼び覚ますのがよい。考察の書き方、例文が笑える。

第3部の「日本語の文章技術」は不要。「本田勝一の『日本語の作文技術』を別途読め」の一言で充分。たぶんたくさんのレポートを採点していて、日本語以前のものがたくさんあるのでさすがに不安になってこの第3部を付け足したのだろうけれど、そこまでいったら「作文術」の講義になってしまうから、思い切って省いたほうがよかったのでは。
私がむしろ書いてほしいと思ったのは、「レポート」と「卒論」の違いは何か、というところ。本書ではほとんど両者が同義のものとして扱われているが、そんなことはないのでは?
あとひとつ、重要なことが書かれていない。「タイトルを書け」以前に大切なことがある。それは、「レポート・卒論は必ず締切を守ること!」

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小松左京全集完全版 (28) 未来の思想

小松左京全集の第2回配本。まず全集の体裁について感想を書いておくと、やはりオンデマンド出版なのでごく一部に文字配列の乱れがあり、本そのものも何度か読むとぼろぼろになってしまいそう。巻末解説も既存の文庫解説の再録。なんだかとても残念である。でも全巻予約したけど。

取り急ぎ『未来の思想』だけ再読。小松左京のかなり初期のノンフィクション作品で、中公新書の第一回配本らしい。歴史を追いながら宗教観と未来観の関係をまず説き明かし、次いで情報化社会における現状を取り上げ、人類の未来を考えることはひょっとしたら人類の未来をさらに大きなステージに乗せることになるのではないか、これは人類文明が青年期を脱しつつあるということなのかもしれない、という希望へとつながってゆく。これを書くために小松左京はかなり勉強したはずで、この仕事が後にいろんな小説作品へと活かされてゆくことになる。『SF魂』でもこのノンフィクションはかなり重視されていた。私にとっての『未来の思想』が、たぶん『境界知のダイナミズム』なのかな。

で、当時、この本がどのような評価を受けたのか知らない。いまの視点で読むと、むしろ正統的な未来観を語っているので、保守的な印象を与えると思う。あたりまえのこと、ふつうのことが語られている、という印象を受ける。決して読者をびっくりさせるようなことは書かれていない。SF作家なのだからもっとぶっ飛んだことやいいかげんなことを書いてもいいはずなのに、小松左京のノンフィクションはそういうことをしない(『地図の思想』なんかはちゃんと「SFルポ」と断りをいれている)。だから読者によっては、小松左京のノンフィクションは飛躍がなくてつまらない、という評価になるのだと思う。

なぜ小松左京のノンフィクションはふつうなんだろうか。たぶん未来を描写するとき、一部の作家は正統的な書き方をするのだ。書かれた時代には実現されていなくても、こういう方向に皆の意識は行くだろうという信念で書かれた未来は、読者を驚かすための奇をてらった未来像や、単に自分の夢を語っただけの自己充足的未来像とは根本的に違うものなのだ。そのため、後年になって振り返ると、そこに書かれていることがとても平凡に見えてしまうのではないか。
そのような作品が後年になっても面白いかどうかは、結局のところストーリーやキャラクターがよいかどうかであり、ノンフィクションなら「たとえふつうになってもそのアイデアや眼差しには普遍的な魅力ある謎が含まれているか」ということになるのだろうと思う。現場をきちんと取材して書かれた近未来小説はたくさんあるけれど、後年になって読むとキャラクターもストーリーもアイデアさえも非常にステレオタイプな感じがすることがある。ふつうではあるけれどステレオタイプではない、という立ち位置が後年になっても維持されているかどうかが重要なんだと思う。すなわち正統を驚く力である。(2007.4.20記)

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酸素の物語

「化学の物語」全6冊のうちの第1巻。この後、水素、金、鉄、炭素、窒素と続く。とりあえず全部買ってみた。
対象は、小学校高学年以上。コンパクトに、うまく書かれている。カラー図版も多数。ダ・ヴィンチ、プリーストリー、キャベンディッシュ、ラボアジェ。大人でもざっと概観したい人には有効かも。

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シンポジウム 未来計画

これは面白かった。すごく面白い、というほどではないけれど、ちょっと得した気分。なぜ城西国際大学出版会の全集の刊行予定に入っていないんだろう。
著者クレジットは加藤秀俊、川喜田二郎、川添登、小松左京の4名(KKKK団!)。しかもタイトルに「シンポジウム」とあるのでとうぜん公開シンポジウムの記録だと思っていたのだが違った。たぶんこの4人で集まってしゃべって、その内容を誰かがエッセイにまとめる、という形式を取ったのだろう。全5章のうち4章までを小松が担当、そこまでで小松が海外に行ってしまったらしいので、最後の章だけ川添が担当。
小松左京の、「あたり前の人間」であることの強さ、みたいなものがよく出ている感じ。未来というから進歩万歳の話かと思っているとそうじゃなくて、実は人間の情緒が大切、保守で何が悪い、というような方向でまとまってゆく。4人のバランス感覚が好もしいし、何よりこうやっていろいろしゃべってしかも本にできる仲間がいたというのはうらやましい。

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天変地異の黙示録―人類文明が生きのびるためのメッセージ

第一部は語り下ろし。第二部「終末観と未来のイメージ」と第三部「ユートピアの終焉」は、既刊『ユートピアの終焉』からの再録、第四部「地球政治時代への提言」は『異常気象』からの再録。『ユートピアの終焉』を持っている人は、買わなくていいかも。
再読したけれど、やはり「ユートピアの終焉」がずばぬけて素晴らしい。ユートピア文学論として、刺激されるところが多い。
その他の原稿は、たぶん多くの人にとっては、ごく普通のことが書かれている、と感じるようなものだと思う(マクロとミクロの間にあるとらえにくい「中間スケール」の世界こそが環境である、といった鋭い指摘もあるけれど)。この普通であることの強さが、小松ノンフィクションの面白さなのだと最近になってわかってきたような気がする。そしてこの普通であることの強さが、フィクションに応用されたとき普通でない面白さに転ずる。つまりノンフィクションを取り巻く環境と私たちの認識、そしてフィクションを取り巻く環境とそれに期待する私たちの認識が、小松左京の活動を輝かせているんじゃないかなあ。

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SF魂

読み残していた小松左京さんの本を順次手に取ってゆく。
こんな薄い本なのに、よくまとまっていてびっくり。どうやって小松左京という作家が仕事を拡げていったのかよくわかる。原稿をまとめた人の名が書かれていないが、編集者? (多くの新書は編集者の筆が原稿に入るので、新書で科学書を書いたというと、実は文芸編集者からバカにされることがよくある。新書はしょせん企画ものと斬り捨てられる)
しかしこういうとおこがましいかもしれないが、昔は小松さんの発言って天上人のもののように感じていたけれど、最近はそうでもないな。例えば『ゴルディアスの結び目』について、「これはメモである」とあとがきで書く感覚、わかるような気がしてきた。だって確かにメモとしかいいようがないよ、ずっとこういう仕事をして、未来のことを考えていたら。別にそれって発言者が巨大であるとか、知的であるとか、そういうこととは無関係だと思う。

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アフリカにょろり旅

面白かった。ウナギの産卵場所を特定しようとする東大の塚本研究室に所属する著者が、ウナギ全18種を求めて世界各地へ。しかし最後のラビアータという種だけが見つからない。そのラビアータを生け捕りにするためにアフリカへ乗り込んだ著者の珍道中記。
これって「小説現代」に連載されていたのだが、他の作家たちは困っただろうなあ。ふつうの小説家より、よっぽど面白い旅行記を書くのだから。とにかくディテールが冴えていて、会話文も自然。後輩の俊という青年とのふたり旅なのだが、特にうまいと思ったのはきちんと読者の疑問に答える内容をあちこちにちりばめてあること。どうして学術研究なのにこんなボロ宿に泊まっているのか? とか、なぜこんなに現地の人と話ができるのか? など、しっかり学術的なバックグラウンドがある。著者本人も述べているように、単なるバックパッカー旅行記や危険が売り物の本ではないのだ。きちんとラビアータを採取して帰国することが目的だから、バカをやっているようでも決して無謀なことはしていない。そのへんが好感を持って読めるところ。
ウナギの産卵場所を特定する話については、塚本勝巳教授が「月刊たくさんのふしぎ」で書いてます。

「朝日中学生ウイークリー」2007.4.15号 連載第13回

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パラレルワールド—11次元の宇宙から超空間へ

そういえば以前、『ホット・ゾーン』のリチャード・プレストンに、「誰かおすすめのサイエンスライターは?」と聞いたとき、真っ先に名前を挙げてくれたのがミチオ・カクだったっけ。
恥ずかしながら、ミチオ・カクを読んだのはこれが初めて。びっくりするくらいわかりやすいし、とにかく全体の構成が見事。ひも理論やM理論の話なのだから、いくらでも難解になりそうなのに、最初から着実に読んでゆけばきちんと最後まで到達できるしくみ。SF作品への言及も多い。
既刊の『新版アインシュタインを超える』などをぱらぱらとめくってみて、構成がほぼ同じだということに気づいた。つまり本書の構成は、ミチオ・カクが長い年月を掛けて熟成してきた一種の名人芸なのだろう。ということは、ミチオ・カク初心者はいつも彼の最新作一冊だけを読めばいいわけだし、ミチオ・カクの愛読者なら常に新刊を待ち望んでいてよいということなのだ。
ジェントルな語り口はとても素晴らしいし、そのときどきに登場する的確なたとえ話や、科学者ならではのちょっとエキセントリックなエピソードも絶妙。
サイモン・シン『ビッグバン宇宙論』の次に読む一冊を探しているなら、これで決まり。

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自然発生説の検討

2006年に復刊されてます。
おお、すごく面白い。自然発生説が単なる迷信から生まれたのではなく、顕微鏡技術の発展に伴って「科学的に」復活してきたこともよくわかるし、その「科学的な」自然発生説をパストゥールがどのようにして「科学的に」論破していったのかもわかる。いちいちパストゥールのやる実験が見事なまでに厳密で、ピンポイントで異説に狙い定め、つぶしてゆくあたりは痛快。巻末に掲載されている公開講義の内容もわかりやすい。
パストゥールの当時の論文を読むと、酵母や細菌の定義がいまと違っているので、最初のうちはかなり戸惑う。そこに注意のこと。伝記ならルネ・デュボス『ルイ・パストゥール』(全三巻、講談社学術文庫)、科学史を俯瞰するならフルートン『生化学史』(共立出版)がおすすめ。この両者を副読本として座右に置いておくこと。

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Wandering in the Gardens of the Mind: Peter Mitchell and the Making of Glynn

生体膜におけるエネルギー転換の研究で、1978年にノーベル化学賞を受賞したピーター・ミッチェルの伝記。生体をダイナミックなエネルギーシステムとしていちはやく捉え、ミトコンドリアの呼吸鎖の研究で有名。金持ちの一族の出身で、大学を若くして退き、その後はグリンという屋敷に自分の研究所をつくって、そこでノーベル賞の対象となる研究を続けた。最近流行のコエンザイムQ10の働きも、この人がいたから解明された。
えー、ミッチェルによほどの興味がある人以外にはお薦めしません。何年に何があったということが書かれているだけで、人物の内面には迫らない。晩年に彼は「ヒューマニティの科学」を目指したらしく、本のタイトルも「ヒトの心は庭園のようなものだ」という言葉から来ているのだけれど、その思想を深く掘り下げるわけでもない……。文献一覧があるのが救い。論文の索引として使おう。
ただ一点、生涯の論敵だったビル・スレーター(とうぜんノーベル賞は獲れず)がなかなかいい奴だと思った。思わずスレーターの著作を古本で注文してしまった。

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Eugenics and Other Evils: An Argument Against the Scientifically Organized State/G.k. Chesterton: Thinking Backward, Looking Forward

似非学者問題と絡めて、近いうちに読んでおきたい本のメモ。
前者はチェスタトンが1900年代の段階で優生学に真っ向から反論した本。その一部は、やはり似非学者・似非科学問題を大きく取り上げたエッセイ集『What's Wrong With the World』などの一部と共に、『求む、有能でないひと』として邦訳されている(ただし大胆に抄訳されているものもあり)。マイクル・クライトンの最新長篇『Next』にも影響を与えている。
後者はチェスタトンの評伝で、なかでも科学との関わりに重点が置かれている模様。なにしろ第一章の章題が、『What's Wrong With the World』をもじって「What's Wrong With Science Fiction?」だからね、期待大。

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だまされる視覚 錯視の楽しみ方

『トリック・アイズ』の著者による、錯視デザインを描くための指南本(しかも著者の言によれば世界初)。著者自作の図がたくさん載っていて楽しいけれど、本書の眼目は、そういうのをドローソフトで自分でつくってみましょうということ。素人には無理なんじゃないの、という気もするが、93ページあたりのような話をもっと増やして、成功例と失敗例(錯視が大きくない例)の違いなどをひとつひとつ紹介しながら、徐々にデザインが完成されてゆく様子がもっと書かれているとよかったのでは。
とはいえ、全体的にはとても楽しい本。
錯視の広場」←初期の作品。
北野明佳の錯視のページ」←カラーの錯視も。
ついでにリンク。
69 Optical Illusions & Visual Phenomena

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G.K.チェスタトン著作集 5 異端者の群れ

1905年刊行、チェスタトンの名を一躍高めた一冊。当時の知識人(H.G.ウェルズやバーナード・ショーなど)を「異端者」として、自らの考えの正統性を示した。後に書かれる『正統とは何か』の予稿集のような位置づけらしいが、異端と正統、信仰や家族の重要性、似非科学への批判など、実際はチェスタトンのテーマがすでにここに凝集されていると思えた。勇気、専門性に関するあたりも、チェスタトンを踏まえた上でこちらの考えを進めてゆくことができる。

チェスタトンの文章は文脈で成り立っているから、ごく一部を抜き出して提示するのがとても難しい。読んでいる間は、とてもいいことが書かれていると感じるのに、抜き出せないから人に素速く教えられない。読んでもらうしかない。それに、チェスタトンの説く正統は、すなわち正気でいるためには信仰を持ち、家族を大切にしなければならないということなのだけれど、これを普通に実行している人はチェスタトンの思想など難しすぎて読めないと思うし、そもそもチェスタトンのようなことは考えないと思う(でもチェスタトンはそういう人たちを決して否定しない)。またチェスタトンが批判する異端者の側にいる人は、やはりチェスタトンが何をいっているのかわからないと思う(チェスタトンが繰り返し批判するのは、他人を見下して自分は偉いのだと錯覚しているような似非科学者・似非文化人である)。
だからごく正統に暮らし、しかも世の中をひとまわりメタな視点で眺め渡した上で、それでも自棄に陥ることなく自分を強く持ち、あえて正統の側に留まることを決意した人でなければ、チェスタトンの思想に共鳴できない。従ってチェスタトンはとてもワンダーに満ちた発現を繰り返しているのに、その驚きを共有できる人が少ない、という逆説に陥る。いつか異端を気取るSF業界(の一部)に向けて、しっかりとしたチェスタトン論を書いてみたいと思うが、徒労に終わるかも。

「偽の自然さは、終始自然と人工の違いをうたいあげるが、高級な自然さは、そんな違いには目もくれない。子供にとっては、木も街灯柱も互いに同じように自然であり人工である。いやむしろ、いずれも自然ではなく、超自然なのだ。いずれもすばらしいもの、口では説明できないものだから。」

「太陽について目を見はるようなロマンティックな事実は、太陽が空から落ちないということである。彼ら(註:家族の重要性について気づかず、自分が進歩的自由人だと思っている人)はありとあらゆる形態、形式の中に何の制限もない世界を求めている。制限のない世界ーーすなわち、輪郭のない世界、すなわち形のない世界であり、この無制限ほど低俗なものはまずあるまい。彼らは宇宙のごとくありたいと思っているが、その実、全宇宙が自分のごとく弱いことを願っているのだ。」

「一流の偉人は、シェイクスピアのように、ほかの人びとと同列にある。二流の偉人は、ホイットマンのように、ほかの人びとを仰ぎ見る。三流の偉人は、ホイスラーのように、ほかの人びとを見くだしている。」

それから、「人間を、ドグマをつくる動物と定義することはできる。」という重要な指摘が登場する。
「現代社会は、ドグマを固く信じた結果それがドグマであることさえわからなくなっている人たちで一杯である。」
では自然科学がそれを解決してくれるのか。チェスタトンの考えはさらに手厳しい。
「真理は論議される瞬間、ドグマに変ずる。こうして、疑問を口にする人が皆かえって宗教を定義することになる。そして今日の懐疑主義は実は信仰を破壊するのではなく信仰を作り出す。」
だからこそ、人間はドグマをつくる動物であると知った上で、私たちはドグマと共に生きなければならない。そしてはじめて私たちは何気ない日常の中に驚き、夏の葉が緑であることを証明するために剣を抜く。その強靱な精神のあり方こそ、チェスタトンが正統と呼んだものだった。
さて、私にとって、あるいはあなたにとって、それでは信ずるとは何か。
チェスタトンは最終的にローマ・カトリックを選んだが、ではもし私(あるいはあなた)がカトリックを選ばないなら、チェスタトンのいうカトリックに相当するものとして私(あなた)は何を選び取るか。宗教の話をしているのではない。正統であることの根っこは何か、という話だ。
ラスト1ページの高揚感はすごい。かっこいいなあ。

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老爺戯作集/色とりどりの国

『老爺戯作集』は、チェスタトンが27歳のときに書いた詩とイラスト(Greybeards at Play, 1900, 邦訳版はISBN4-87440-448-0, 渓水社)。なんとチェスタトンの第一出版物。『色とりどりの国』はチェスタトン死後の出版で、邦訳はそこから物語9編、エッセイ2編、詩6編と、イラストを抜粋(The Coloured Lands, 1938)。表紙に翻訳者の名前が書かれていないが、訳者は尾崎安と山形和美。
どちらもチェスタトンのイラストが存分に楽しめる。『老爺戯作集』は正直なところ内容の意味がよくわからないのだが、『色とりどりの国』はどれも素晴らしい。表題作はチェスタトンのおとぎ話を代表する一編といっていいだろうし、科学への鋭い洞察を含んだ作品が複数入っているのも嬉しい。「似非学者と料理人」という物語は、無人島に漂流したふたりが、大きなウミヘビに遭遇する。似非学者の発明品でウミヘビは退治されるのだが、科学的に説明できない異常事態に遭遇してしまった似非学者は、以来これは夢だと思い始める。やがて「物証を集めよう!」とウミヘビの写真を撮っていたことを思い出し、現像するが、そこで似非学者は打ちのめされ、狂乱状態に陥る。彼を助けるため料理人はウミヘビの死骸を料理して彼に与え続ける、あくまできみの見たウミヘビは植物や鳥を見誤ったものだとウソを吐きながら。似非学者はそのウソを受け容れ続け、合理的な説明に安心して、ウミヘビの肉で生命を維持し続けるのだ。もうニヤニヤしながら読んでしまった。ニセ科学をニセ科学だとみんなが言っているからという理由で批判するような人や、信仰としてアンチニセ科学を標榜してしまうような人は、いちどチェスタトンを読んでみるといい。他に、技術の進歩に対する皮肉をうたった「運転手諸君に捧げるバラード」などもチャーミング。
邦訳はどちらもやや入手困難か。前者の原文は『G.K. Chesterton's Early Poetry』で、後者は『Collected Works Volume 14』で、それぞれ現在入手できるようだ。
チェスタトンの詩作といえばまず『白馬のバラッド』なのだけれど、この邦訳はさらに輪をかけて手に取るのが難しい。渓水社から翻訳が出ているらしいのだが、いまだに現物を見ることができず……。
今年はチェスタトンをたくさん読んでいきたい。

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わたしを離さないで

【ネタバレあり。注意のこと】
このサイトで小説を取り上げるのは初めて。
実はあるイベントの準備のために読んだのだが、久しぶりに小説を読んで虚脱感を感じたのであった。冷静な部分と、酷く怒りを感じる部分が心の中にあって、両者が合わさって、もうどうでもよくなったというか。私の小説と対局の位置にあると感じた。
ネタをばらすが、これはクローン人間の話だ。誰かに臓器を提供するために生まれてきた少年少女たちが成長してゆく物語である。彼らは絵を描き、小説を読む。「ポシブル」と名づけたクローンの親を捜す。彼らは互いを介護する。最後に主人公はある人のもとへ赴き、クローン社会の現実を知る。
カズオ・イシグロを読むのは初めて。解説によれば、「記憶は捏造する」「運命は不可避である」といったテーマを繰り返し追究しているらしい。まず多くの人が感じるように、主人公たちクローンがまったく自分たちの置かれた現状に反抗しない、異議も示さないのは極めて不自然。この小説には「社会」がない。世俗とは切り離された世界で庭園を世話する人々の物語なら、こういう書き方もあるだろう。でもこの設定でこの展開は、どうしても私には受け入れられない。作者や主人公たちにとって科学とは永遠に離れた別の世界のことであって、そこから降ってきた運命を甘受し、その中で共感し合ったりして涙を流す。
人間は自分の世界を自分で(無意識のうちに)決めている。自分が知らない世界は見えないし、感じ取ることもできない。この物語にとって科学とはそういうものだ。でも彼らは人間らしさを求めようとする。絵を描くことや小説を読むこと、音楽を聴いて踊ること、それを見て泣くことは人間らしい豊かさとして描かれている。それが私にはとても気持ちが悪い。クローンの少年少女たちを援護するとある人物は、彼らに絵を描かせ、その絵を他者に見せることで、クローンにも人間と同じ心があることを示そうとする。でもね、子供みんなが絵をうまく描けるわけじゃないよ。絵が下手なクローン人間はどうするのかい。その子は人間らしくないのかい。そんなはずはないだろう。絵を描かない他の動物は、クローンをつくってもいいだろうか。人間が特別であることの意味を、私ならもっと広く考えたい。物語が箱庭の中でつくられているから、そこで描かれる人間らしさも極めて閉ざされているように思える。世界の一部に閉じ籠もった人間同士が、一部にしか満たない感情で、普遍的な人間らしさを見つけようともがいている、そんなふうに思える。それでもよいのだが、最後に登場するマダムの感覚はさらにヘンだし、上述した箱庭の世界観をさらに歪ませてしまっていると思う。
私の記憶が間違いでなければ、この小説には「共感」という言葉が前半と終盤、2回出てくる。これが原文でシンパシーなのかエンパシーなのか、調べてみたいところだ。
以下、クライマックスの部分に言及する。
325-326ページのクライマックスは、まるで納得できなかった。少女が踊っているのを見たマダムは、「とても共感を誘う踊りでした」という。少女は、マダムが自分の心を読んだのでそのとき泣いたのだと思っていた。少女は「ネバー・レット・ミー・ゴー」という曲に自分なりの解釈をして、子供が産めないはずの自分に赤ちゃんが授かり、でもその赤ちゃんは引き離されてしまうかもしれないという思いを抱いて踊っていたのだ。その気持ちをマダムは読んで、だから泣いたのではないかと。そして少女はその時を振り返って、悲しい気持ちになる。
ここの描写は素晴らしいと思う。人間の持つエンパシーとシンパシーの能力を、少女は見事に発揮しているのだ。しかしその後に語られるマダムの言葉が酷い。
自分には心は読めない、まったく違う理由から泣いていたのだ、とマダムはいうのだ。これから科学が発達してゆくだろう。それは素晴らしいが、残酷な世界でもある。そこにひとりの少女がいて、古い世界を胸に抱えて、消えゆく世界を離さないでと懇願して踊っているように見えた。だから胸が張り裂けそうだったのだと。
このマダムは、せっかく少女が見せた人間らしい心の動きを、単なるノスタルジーに転換してしまうのだ。しかもそこで流す涙は、人間としてもかなり単純な部類に属する感情に支配されたものだと思う。ノスタルジーによるシンパシーは、結局思考停止の産物で、何も深いことを考えなくても涙が流せてしまうのだから、ある意味ロボットであろう。つまりこの小説は、せっかくの深い人間らしさを、結局は放棄することで読者を感動させているのである。ここで得られる感動は、「自動化」された心の働きに過ぎない。そんな心の働きで、運命を受け入れてほしくないし、また他者を理解してほしくもない。怒りを覚え、虚脱したのはそのためだ。マダムは最後に「かわいそうな子たち」と繰り返す。作者はここで、マダムこそがかわいそうなのだと読者に感じてもらいたかったのだろうか。うーむ、そうではないような気がする。でも私はここで憐れみも悲しみも感じることができず、ただ眼に見えない箱庭の強固さを突きつけられたようで、(作者が図らずも見せた)人間の心の限界を目の当たりにしたようで、虚脱したのだった。
カズオ・イシグロの小説って、他のもこんな感じなのだろうか。これは私の考える小説の歓びではないなあ。けっこう期待して手に取ったので、反動でかなりがっくりきている。30年くらい経ってから読み直してみようかな。その頃には私の心もずいぶん変わっているだろうから。
他の人の意見も聞いてみたいなあ。

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市民のための「遺伝子問題」入門

2004年刊行。読み残していた生命倫理本の消化。
奥野はナビゲート役。実際は7人の執筆者が「ここだけは押さえておいてほしい」という遺伝子問題の基本を解説している本。ただ、基本とはいってもしっかりした内容で、科学者ならこのくらいのことは何も手元になくても一般の人に説明できるようになりたいね、というレベル。その意味では「市民のための」と謳うにはちょっとしっかりしすぎているのかも。ハードカバーであるのも敷居が高そうに見えてしまって、このへんが難しいところ。
遺伝子治療に関わる大学研究者の立場については、私ならもう少し違うニュアンスを持っているのだが、うまく文章化できない。自分への今後の課題。

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世界の果てが砕け散る―サンフランシスコ大地震と地質学の大発展

サイモン・ウィンチェスターの新刊なら、何をおいても読む。こんなに分厚い本を、2日間で貪り読んだ。
今回は1906年4月にサンフランシスコを襲ったマニグチュード7.9の大地震に焦点があてられる(映画『桑港』を参照)。だが、例によって地震が起こるのは半分が過ぎてからだ。それまでウィンチェスターは何を書くか。まずは宇宙から見た地球の描写から始まる。この地震を宇宙から見たらどう見えたはずか。そして北アメリカがどのようにしてできたのか、なぜそこに地震が多いのかを、現代の地質学の知見でもってじっくりと描き込んでゆく。テレーン、プレートテクトニクス、といった言葉が現れる。そして同時に、なぜ人々がカリフォルニアに集まったのか、それがどのように地理的な側面と結びついているのかを描くのだ。地質学の知見と人々の歴史が絡み合い、1906年4月18日の早朝へと突き進んでゆく。

そして100ページに及ぶ破壊と復興の章が始まる。ここでのウィンチェスターの筆致はさすがだ。オペラ歌手エンリコ・カルーソー、写真家アーノルド・ゲンゼなどの行動がつぶさに語られる。ウィンチェスターはゲンゼの写真は本文中に引用しているが(カバージャケットにもなっている)、無名の写真家たちが撮ったその他の何千枚という写真はあえて載せていない。彼はしかし、そのうちのいくつかを文章のみで記す。ここが私にはもっとも恐ろしい場面だった。抑えた筆致の中に、その写真を見つめるウィンチェスターの息遣いさえ聞こえてきそうな気がしてきたからだ(328ページ)。
ウィンチェスターは人々と公平に記そうと努力している。だがときおり、地震という自然現象を蔑ろにする人々に対して、強い憤りをペンでぶつけており、これが読者の胸を打つ。この災害は人災であるといい、地震そのものに触れようとせず、サンフランシスコを安全な町であると強調しようとする動きが震災後に見られた。ウィンチェスターはこの行為を言外に強く批判しており、このことに多くの日本人読者は意表を衝かれるかもしれない。なぜなら地震災害は人災であると強調して防災に努めようとする動きは現代でも強いからだ。しかし地質学を学んだウィンチェスターはこのようなごまかしを許さない。彼は人間の思い上がり、うぬぼれ、無頓着を叩く。震災後に急成長を遂げた宗教団体に対してはニュートラルに書く彼が、地震の頻発する地域にいまも悠然と暮らすリッチな人々に対してははっきり「愚かだ」と記すのである。

本書は野心的な構成ゆえに、読者を否応なく引きずり回す「娯楽」にはなりきれていない。しかしそこに私はウィンチェスターの優れた作家としての資質を見る。そして彼の最高作とはいえない本書も、充分に素晴らしい作品なのだ。そして本書には、彼の先行