なぜあの人はあやまちを認めないのか
読後、書評委員会で手放した本。他の委員が書評するかもしれません。
内容はタイトル通り。心の不協和音を自己正当化する心理について、さまざまな事例をもとに検討している。
ただ、ここから先の研究がもっと読みたかった、ということもあり、少し流し読みしてしまった。
この手の本では、たいてい「私たちはあやまちを認める勇気が必要だ」という結論で終わるのだけれど、現実問題としてそこで終わることはできないのでは。たとえばどうだろう、誰かが過ちをおかしているとき、その人ひとりだけが間違っているわけではないのではなかろうか。
こういった本で検証されるのは、政治家が失言したとか、冤罪が起こったとか、結婚の失敗を認めないとか、高価な買い物の失敗を認めたがらないとか、そういう事例なのだけれど、日常的に考えてみると特にコミュニケーションのなかでは、ひとりだけが過ちを犯すということばかりでもないように思うのだ。過ちというのは突然生まれるのではなくて、たとえば結婚生活なら互いの言動が積み重なってのっぴきならない状況になってゆく。たとえば多文化社会では推測や思い込みの違いがそういう状況をつくり出してゆく。そういうとき、どちらかだけが謝罪すればいいというものではなくなってゆく。
たとえきっかけはひとりの発した一言であったとしても、その人だけでなく、その人と議論した人もある程度は過ちをおかしていたかもしれない。その人を糾弾した人、その人に賛成した人、傍観していた人、そういった人たちも部分的には過ちをおかしていたかもしれない。でもひとりだけが勇気を振り絞って己の過ちを認めたら、結局認めたその人だけが、日本では社会的に大打撃を被ることになりはしないか。
彼個人が過ちを認めることで、なるほど何らかの事象は解決されるかもしれない。だが彼はその後、さんざん罵倒されて生きなければならない。そのリスクを背負って彼は勇気を振り絞り続けなければならない。なぜ彼だけがそんなリスクを背負わなければならないのか。他の人にも勇気の分担があってしかるべきなのに。この勇気は賞賛されることが少ない、現代日本社会ではベネフィットの少ない勇気なのだろう。
ふつうわれわれは過ちを認める勇気と、その後の社会的ベネフィットを秤にかけて、ベネフィットの多いほうを選択しているのではないか。関係者双方が同時に勇気を持って過ちを認めるなんてことはまずありえない。そのことをどう考えればいいのだろうか。
この問題は『境界知のダイナミズム』を書いていたときからずっと考えているのだけれど、うまい答が見つからない。ひとつの考え方は、誰かが過ちを認めたら、その勇気を周囲の人が認め、讃える、そういう心理的な環境をつくり出すことだが、難しい。
そういうところまで踏み込んで考察してほしかったなと読了して思った。うーん、このような本の感想文を書くことは、もしかしたら自分の思いとはまったく別に、穿った見方で読まれてしまうかもしれないと悩み、とても緊張する。ただ、実はこの本のあと、ダン・ガードナーの快著『リスクにあなたは騙される 恐怖を操る心理』を読み、ここでの自分の疑問や問題意識とつながっていることを発見したのだった。そうそう、こういうふうに自分は考えていきたいのだと思った。
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