信じぬ者は救われる
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【2008.8.12, 2008.8.15, 2008.10.15追記】
以下の本文・コメント欄で言及している(飽和)水素水に関して、学術論文の一覧と瀬名の個人見解をまとめました。ぜひ次のエントリーもご覧ください。
→瀬名NEWS: 水素水研究の基本を理解するためのリンク集 【水素水その2】(2008年8月11日公開)
そしてこのリンク集に対して、日本医科大学大学院・加齢医学研究科の太田成男教授から、水素水研究に関して心を動かされる文書をいただきました。許可を得て次のエントリーで紹介しています。こちらもご覧いただければ幸いです。
→瀬名NEWS: 太田成男先生からの手紙 【水素水その3】(2008年8月15日公開)
水素研究会発足記念シンポジウムにおいて、私は水素医学研究に関するpublic relationsの充実を呼びかけています。記録は次のリンクから辿って下さい。これは本エントリーにおいて私が今後の作家活動で答えてゆくと述べたことの実践であり、私が作家活動のなかでなしうることをなした仕事であると考えています。
→「水素研究会発足記念シンポジウムの内容公開 【水素水その4】(2008年10月15日公開)」
→「「一般の皆様へ」研究室のスタンスを伝える 【水素水その5】(2008年11月18日公開)」
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2刷を謹呈していただいたので読んでみました。香山さんはいつも私の事務所宛に送って下さるのに、今回は自宅宛。ということはいつもと違う謹呈リストで送られてきたのでしょう。
率直に、かつだらだらと感想と述べます。
*
みっともない発言を活字にしたり、ウェブに載せたりするのはもうやめよう、と読みながら思った。世の中いろいろ愚痴をいいたいことはあるだろうし、自分のことを弁解したくなるけれど、それを読むのはおもしろくないよね。だから今回限りでやめようと思う。
香山リカと菊池誠の対談集。香山さんはこのところ月刊ペースで新書等を量産しています。おもしろい本もあれば、明らかにやっつけ仕事のものもある。菊池さんは「kikulog」というウェブサイトでの活動により、ニセ科学批判の代表者として世間から認識されている。彼の活動に注目した記者らが、昨年くらいに相次いで記事に取り上げたので、ちょっとしたニセ科学批判ブームになったことは記憶に新しい。本人はカフェ・サイファイティークの一員であり、サイバーパンクやディック、ラッカーなどのドラッグ系SFのファンだと思われます。
対談集としては構成もだらだらしていて程度が低いです。飲み屋か、せいぜい半分内輪のトークイベントでやってほしい会話。編集者がもっと介入して、いい本に仕上げる努力をすべきだったと思う。岩波ブックレットみたいにすればよかったのに、ほとんど最初から最後までふたりの愚痴と迷いです。「江原啓之さんをウソ発見器にかけてみたい!」というオビもかなりひどい。「精神科医と物理学者の超刺激対談」という煽りも、肩書きに依存して権威づけしているわけで、改善の余地はあるでしょう。もっともご本人たちは「編集者が勝手につけたんだ、本文で弁解している」というかもしれませんが、世間はオビだって著者の責任範囲だと思うものですよ。
#ただし挟み込まれている出版案内の書影には、違うオビがついている。「ニセ科学やスピリチュアルにハマる人は政治にもだまされる」……初刷と2刷でオビが変更されたのか、マーケティングを考慮してぎりぎりの判断でオビが変更された可能性もある。むろんそれも著者が背負うことになる責任のひとつだと思う。
おふたりのいっていることの基本は、私も同意しますし、迷いにもある程度の共感を覚えます。しかし読んでいて首を傾げたくなってくるのは、おふたりの言動にぶれがあるからで、そして何を目的とした(どこへ向かおうとした)対談なのか最後まで分からないからでしょう。カバージャケットのおふたりはさわやかな笑顔ですが、こんな読後感は得られません。
菊池さんに対しては、複雑な気持ちがありますね。私が『パラサイト・イヴ』でデビューしたころ、菊池さんは仲間たちとウェブ掲示板の書き込みをしていて、そこで私を嘲笑していました。あの掲示板はミトコンドリアを擬人化している、という批判の代表格だったのではないかな。『パラサイト・イヴ』が映画化されることが決まったときは、「ミトコンドリアはかぶり物でやるのか」と嘲笑し合っていましたね(この発言自体は菊池さんのものではありません)。
だから私は、菊池さんがニセ科学批判における笑いの効用を説いても、容易に信用することはできません。ニセ科学には笑いを浴びせよう、それが最大の批判効果をもたらす、という主張は、ときに怖ろしい凶器となることを知っているからです。相手を見くだすことで、自分を安全な高みに置き、自分を優位に立たせる、そのために嘲笑う。私はデビューして13年の間で、この習慣がSF業界に驚くほど浸透していることを知りました。菊池さんの中にもそういう感覚がいくらか残っていると私は感じます。おおむね彼らが嘲笑する相手は、反論してこない絶対権力でした。だからこそ安心して嘲笑できたわけです。95年当時、私はそういう絶対権力者と見なされていたのかもしれません(実際、平然とそういうことをいってくるSF作家がいましたね)。しかし私は反論したので、彼らは面食らったのだろうと思います。だからニセ科学批判の手段として、相手を笑うということには、私は真っ向から異を唱えたいと思います。あなたがもし、あるとき突然、人から誤解のもとに嘲笑されたらどうしますか? その心の痛手は、本当に大きいものです。だからどんなときでも人を嘲笑してはいけない。笑う人は他人から笑われるということを肝に銘じておいた方がいい。笑いたいなら権力そのものを笑えばいい。
もうひとつ、SF業界に根強く残っている悪癖は「謝罪しない」ということです。私はこれでもデビューしていくらか人生経験を積み、自分が悪かったと思うことには謝罪できる心を持てるようになってきました。私は菊池さんに対して、自分が行き過ぎた言葉を過去に述べたことについては頭を下げて謝っています。しかし菊池さんはどうでしょう。他人が謝ることでまだ勝ち負けを決めているのでは。汚い言葉を自分で使っていたと感じたときは、お互いにこれからは謝ることにしませんか。
*
菊池さんたちの主張で、以前から私がどうしても了承できないのは、実験についての考え方。
このあたりにまとめられている話ですが、菊池さんや田崎氏と私では「科学者」というものに対する考え方が違うためにこの違和感が生じています。
田崎晴明「「水からの伝言」を信じないでください」のうち、「「水からの伝言」が事実でないというためには、実験で確かめなくてはいけないのでは?」
本書では36ページ。
菊池 『水からの伝言』については長い長い議論があるんです。反証が必要か、必要でないかというだけで、ものすごい長い議論がある。僕らは、あそこまででたらめな話に反証は不要だという立場です。(中略)『水からの伝言』って、科学的な主張の体をなしていないんですよ。だから、反証しようにも、何をすれば反証になるのか実はよくわからない。
香山 大規模な実験をやってなんて、ばかばかしいと思われるんでしょうね。(中略)
菊池 もちろんそれに納得しない人はいますよ。やはり反証してこそ科学ではないかって。『水からの伝言』を信じているわけではなく、自分は科学の側だと思っている人のなかにもそういう人はいる。
香山 一〇万個でも、一万個でもビーカーに「ありがとう」と貼って、全部いい結晶にならなかったと反証する。でも、そういうことをすると、じゃあ一万一個目はなるかもしれないという議論になりかねない。
菊池 もともと歩留まりの悪い実験なんです、あれは。(中略)歩留まりの悪さをうまいこと利用していて、だからああいう話ができるわけ。
この部分はかなりあざといですね。先手先手を打っている印象。だからこそ微妙に引っ掛かります。
まず、これには長い経緯があるんだから素人が思いつきで意見を述べるのは危険だよ、と相手を牽制している。科学の体をなしていないものに科学的な反証しても意味がない、というのはそのとおりだけれど、ではその他のグレーゾーンにどう立ち向かえばいいのか、という問題に本書は回答を与えていない。一〇万個のビーカーについては、香山さんが統計学の手法をあえて無視し、架空の反論をでっちあげていて問題があります。
私たちが世界と初めて向かい合うときのことを思い出してみましょう。不思議だなと思ったとき、私たちは実験して確かめたいと思う。菊池さんだってかつてはUFOにはまったと本書のなかで語っています。まず興味を持つとき、私たちはその対象がニセ科学かどうかなんてわからないわけです。だからこそいろいろ調べたり、実験したりする。その過程で科学を学んでゆく。
だからいくら水の結晶の話が非科学的でも、ふしぎだなと思って実験したいと願う人が出てきたら、その人をきちんとサポートできる社会が必要なのだと私は強く思うのです。その過程で科学を学んでゆけばいい。
もし自分の子どもが実験したいといい始めたら? 私はその子の好奇心を伸ばしてあげたいと思う。どうすれば実験できるか、いっしょに考えてあげたいと思う。「ありがとう」とそのまま紙を貼る実験はつまらないよ、きみは本当にその実験をやってみたいのかい? と私は質問するかもしれない。でも代わりに、きみの好奇心を満足させるこんな実験ならおもしろいよと提案するかもしれない。水の結晶の実験は難しい? ならばどんな実験系なら本質を変えずに実行できるのか考えればいい。ごはんが腐るか腐らないかでやってみてもいい。いくつのサンプルが必要だろうか? 条件はどうすれば一定になるだろうか? どういう検定をすればいいだろうか? そして、ではどんなものなら本当に影響を与えるのだろうか? これを読んでいる科学者のあなたでさえ、きちんとした実験系をすぐにはいえないと思う。統計学の本をひっくり返して、勉強し直さないといけない。これこそ実験科学の第一歩だ。苦労してやっても、思い通りの結果にならないかもしれない。自分が信じていたことを、実験結果は残酷にも否定する。それを受け入れる強さも必要だ。さて、その次はどうすればいいのか? 実験系そのものがダメなのか、それとも自分の手さばきの問題なのか? 文献をどうやって調べればいいのか? 実験のコツをつかむにはどうすればいいのか? どういう実験が本当におもしろいのか? そのセンスを磨くには? こういう経験を一つずつ積み上げてゆくことこそ、なにより科学の面白さであるはず。反証する意味がないという話ではなく、わたしがここでいっているのは実験をしたいというきっかけは何であれ大切にしなければならないということ。
生き残るためのルールとして、そんなことに長く関わるな、ということは重要でしょう。子どもに「ストーブに近寄ってはいけない」ときつく叱ることは大切。その意味で「こんなこと実験するまでもない」ということは問題ないでしょう。しかし私は、そこから先の眼差しが大切だと思うので、「水の結晶と心の働きについて実験したい」ともし自分に質問されたら別の答え方をしたい。その人の実験力を伸ばすようなアドバイスをしてあげたい。「ほとんどの読者のみなさんが(そして、「水からの伝言」の実験をしている人たちが)科学者ではないからです」とはいいたくない。
*
むろん全員が全員、科学の面白さにすぐ目覚めるとは思いません。そもそも実験したいと思うような子は、『水からの伝言』なんかに引っ掛からないって? まあそうかもしれないですね。
それでも。
私たちが物事を信頼してゆくためには、実験しかない。
と私は思うのです。
実験結果は、私たちにおかしな信念を植えつけることがあります。しかし同時に、おかしな信念をひっぺがす力もある。かつて科学者が生命の自然発生説を信じていたのはなぜか。パストゥールの『自然発生説の検討』に詳細に書いてあります。かつての科学者が信心深かったからではない。彼らもまた科学の精神に忠実な実験科学者でした。ちゃんと科学的にフラスコを密封して、そこからやはり生命が湧いてくることを実験で見て、それによって自然発生説を主張していたわけです。彼らは残念ながらわずかに注意不足で、完璧に密封したと思っても空気中の細菌が入る余地を残してしまっていた。パストゥールは彼らの論文を丹念に読み、細菌が入りそうなところを徹底的に見直して、見事な実証実験をして、生命が湧いて出ないことを証明しました。この教訓はまでも有効です。
いま私たちが常識と思っていることも、今後は実験によって覆される可能性が大いにあります。だからこそ、私たちは実験手技を学び、実験によって自分の信念を見直し続けてゆく必要がありますよね。私たちが本当に学ばなければならないのは、実験の大切さです。
『水からの伝言』は常識以前の問題だろうって? いや、私がいまいいたいのは、そういうことではありません。
水の結晶なら、自分の生活と直接の関係はないでしょう。しかし重要なのは、私たちが常にそういったものと無関係でいることはできない、という事実なのです。
なぜこれらとの対峙方法を知っておく必要があるのでしょうか。それは地球上に棲む私たちは、誰もが多かれ少なかれ科学者であるからです。私は男で、日本人で、仙台在住で、作家です。それぞれの属性をいつも少しずつ持っているように、同時に私はいつだってちょっぴり科学者なのです。私だけでなく地球上すべての人がそうなのだと思います。
ですから私たちは、日常のどこかで科学者としてのふるまいを要求されます。
そのとき科学者であるためには何を身につけていなければならないか。つまりそれが「実験力」なのだと思うのです。それは自分で実験を組み立て、実行できる能力であり、そこには論理的思考、無駄を省ける合理性、職人的なカン、手先の器用さ、鋭い観察力などが求められます。すべてを習得するのはとても大変ですから、私たちは小学校から大学院までひたすら勉強を続けるのです。実験力が身についてはじめて他人の実験の善し悪しがわかるようになります。相手が狭い業界のテーゼに縛られているということが見抜けるようになります。
たとえば、現在進行中の健康科学に対してどう向き合えばいいか、ということは、このウェブページにも書かれています。
「健康情報の信頼性を見分けるには」
おそらく多くのリベラルな科学者は、この考え方を身につけていることでしょう。自分の専門外のことは趨勢を見守るしかない。自分にとりあえず関係のないことは、こうするのが理性ある大人の対応でしょう。「レスベラトロール? ふーん、まあ今後の実験結果を待ちましょう」で、さほど問題はない。
しかし私たちは誰もが科学者です。だから人生の中でどこかで当事者になる。ニセ科学についていちばん難しい問題はここです。
まずは職業科学者の日常について考えてみましょう。科学者は常に切っ先の研究をしています。そこで日々得られる実験結果は、まだ世界中の誰も知らないことです。自分がはたして実験に騙されているのか、それとも新しい真実をつかみかけているのか、本人でさえわからないのがふつうです。常識とはかけ離れた結果が出ることだってあります。そのとき私たちはどうすればいいのでしょうか? 実験力を鍛えて、その実験結果をとりあえず信頼するしかありません。
もしあなたの上司が飽和水素水の研究を始めたらどうしますか。あなたはきっぱりと「それはニセ科学です」といいますか。いや、その上司が出してくる実験結果はどれも明快で、見事なものばかりです。あなたは騙されかかっているのでしょうか。上司はその成果の一部を「Nature medicine」にも載せました。「Natureは金儲けに走ることがあるから信用できない」って? それはそれで偏見ですよね。もしあなたが別の研究室の人間なら、とりあえず放置して、無視しておくこともできるでしょう。しかしあなたはもはや飽和水素水の研究室の一員なのです。あなたはどうしますか?
この件については、私も『ミトコンドリアのちから』の中で、慎重に文章を綴りました。当事者になってしまったら、私たちは自分で実験し、その結果を見据えてゆくしかない。自分で実験できないなら、自らの「実験力」という心のタフネスを駆使して目の前の結果を吟味しなければならない。会社の圧力で実験結果をねじ曲げてマイナスイオン商品を売らなければならなかった、などのケースなら、他人に責任を押しつけられるので話は単純です。でも本当に難しいのは、自分でさえいま目の前で起こっていることが真実なのか間違いなのかわからないときなのです。いまあなたが判断を求められているときなのです。実験結果があなたの常識に揺さぶりを掛け、生命は湧いて出るのか、決して自然発生しないのか、わからないときです。そういうとき「私は科学者ではありません」という逃げは通用しません。
そう考えると、私たちは日常の中でも科学者としての眼差しが必要であることがわかります。たとえば、あなたはテレビの健康番組を見て、とあるサプリメントを飲み始めました。なんだか体がこのところ軽くなったようです。あなたはそのサプリメントに効果があると思いますか?
ここではさらに問題が複雑化します。あなたの目的は、健康を取り戻すということです。結果的に健康になったのなら、それでとりあえずはいいでしょう。「あのサプリはよかったよ」と人にお勧めすることもいいでしょう。そういう話、飲み会では盛り上がります。しかしそこにどれだけの根拠があるのか、自分で見定めておく必要はあるでしょう。ここでも実験力が重要になります。自分に効いたと思う根拠をどこまで見積もるか。他人に勧める根拠をどこまで見積もるか。それはあなたの実験力がどれだけ鍛えられているかにかかってきます。人から勧められて自分はどう判断するかということも、同じく実験力にかかってきます。この実験力はあなたの社会的知能にも直結するでしょう。これはしんどいことです。タフであることが必要だろうと思います。しかし「あなたは科学者じゃないんだから、取り敢えずこう考えておきなさい」といってしまうと、大切なことが取りこぼされてしまう。私はだからあえて、すべての人が科学者であり、当事者であるという立場を採りたい。
そしてもうひとつ。大切なことがあります。なぜそもそもこの実験をするのか? なぜこの実験が必要なのか? そういうことを考える力も、また実験力だろうと思います。「ありがとう」と紙で貼って水の結晶をつくってみる実験はばかばかしい、と思えるようになるには、なぜ自分はこの実験をするのか、それが語れるように成長してゆくことが必要となります。最初からそんな能力を持っている人はいません。学習して、身につけてゆくものです。だからこそ私は実験する芽を摘んではいけないと思います。
いま学会に行けば、たくさんの人が発表しています。でもどれだけの人が、自分の研究の意義を本当に語れるでしょう?
いまの大学院教育が大変なのは、このようなことををきちんと教育できない忙しさにあります。実験の基礎力は、大学院で学ぶしかない。するとそれだけで精一杯になってしまって、自分がそもそもこういう研究をするのはどうなんだろう、という本質まで行けない。
私は最近よく、「二枚目がかっこいい研究者になろう」と呼びかけています。学会で発表するとき、スライドの一枚目はタイトルと名前と所属。二枚目が研究の背景です。しかし多くの学生は、ここをなおざりにする。先輩からスライドをもらってきて、「こんなふうに適当にいっておけばいいよ」と教わってしまう。教授のいっていることをそのまま鵜呑みにしてしまう。二枚目は適当にお茶を濁して、「まあそういうことになっているんだから察してよ」となあなあにして、早く三枚目の実験内容に話を移したい。そういう風潮があるから、オープンキャンパスや学会会場で、二枚目のスライドについてつっこむと多くの学生はしどろもどろになります。助教さんや准教授さんでさえ、ここができない人がいる。何を質問されているのか分からないという顔をする人さえいる。
でもね、研究で本当に大切なのは、二枚目のスライドを豊かに語ることだと思うのです。本当は二枚目のスライドだけで1時間くらい語れるバックグラウンドがほしい。大学院はそういうことを身につける場だと思うのに、実際はそれができていない。
作家だって同じ。本当にかっこいい作家になること。それを目指さないで、何がエンターテインメント作家なのか?
看護師、薬剤師、私はそういう人たちと話す機会も多いのですが、私がこういった分野に以前から希望を見出しているのは、ここに21世紀の科学があると思うからです。私の共著作『境界知のダイナミズム』は、こういった「現場の科学者」たちにやはりもっとも読まれているようです。
*
本書の終盤は、やたらとマーケティングの話をしています。
マーケティングは、まあやったほうがいいでしょうが、正直なところ自分自身でそのへんに深く足を突っ込もうとは思わないかな。マーケティングは結局のところ、本書の著者らが悩んでいる二分法の話になってしまうから。
いまは10年前と比べると、科学に接する機会はとても増えてきました。サイエンスカフェはどこでも隆盛です。マーケティングが成功した例でしょう。でもそれが科学普及だとはあまり思わないな。自分でイベントを企画することもありますが、私はでんじろうさんのようにはなれないし、そのへんは適材適所でいいんじゃないか。私は自分でできること、自分で重要だと思うことをやっています。
ただひとつ自らを律していることがあります。それは、科学コミュニケーション業界の論理にはまらないこと。科学コミュニケーションが大切だという人たちが集まると(他の分野でも同様だが)、やはりそこには業界の枠ができてしまう。彼らだけの正義感や常識ができてしまう。
本書で語り合っているふたりの著者は、いまそういった枠組みに取り込まれてしまうなかで、自分をどうすればいいのか悩んでいるのではないかな。そこが彼らにとって「信じる」と「信じぬ」の揺れなのではないかな。
早くも31ページで菊池さんは述べている。「「どれがウソで、どれが本当かもっと教えてほしい」と言われるんです。だけど、それを言ったって、言われたものについて、ああウソなんだとか、本当なんだって思うだけじゃないかという、そんな無力感があります。結論だけあればいい」その後に述べられた言葉に力はない。「僕らがずっと言い続けているのは、答えだけじゃだめだよという話なんです」
むろんこういう本を一冊つくっておかないと、つぎに進めないというのもわかる。迷いをそのまま出しておかないと、つきものが落ちないというか。
でもその上で思う、せめてこういう本では、そこへの希望や意思表明をふたりで出してほしかった。難しいことをあえて承知で語ってほしかった。憂いて終わってほしくなかった。
次は拙速な本ではなく、「救い」とは何であるのかを本当に語ってほしい。著者ふたりに対して、切にそう思います。
*追記(2008.3.16)著者のおひとりである菊池誠さんからコメントをいただきました。ありがとうございます。
「「信じぬ者」と瀬名さんとパライブの頃」
こちらの記憶でつけくわえることがあるとすれば、
・「多くの読者」と書かれているが、当時擬人化を問題視していたのは全体の読者からすると一部であって、多数派ではなかった印象。だからかえって目立って見えた。
・そういった「擬人化しちゃ(SF/ホラー小説として)だめじゃん」という当時の御意見の中には、「擬人化しちゃ(科学者として)だめじゃん」「(人間として)だめじゃん」などのように、著者への人格批判に拡大してしまうものもあった。そういう背景があったので、菊池さんたちと意見交換した。
ということですね。「科学とは何か」についてはぜひいつかお話してみたいと思います。
「科学を伝える」という点では、菊池さんには昨年ならびに本年の日本SF大会でお世話になっています。以前に比べると、ときにはちゃんとSFの中に入って発信することも大切だと思うようになってきました。このような心境の変化は、菊池さんとのやりとりのおかげです。心から感謝しています。
追記(2008.4.2) 皆様、多くのご意見をありがとうございました。これは定型文ではなく、貴重なお言葉に心から感謝をしています。私自身、多くの発見と反省、またそれを踏まえての新しい思いがありました。あとは今後の作品や作家活動でお答えすべきことだと感じましたので、ここでコメント欄を閉じさせていただきます。
最後に私から後日、きくちさんに対してはお返事を書き込みますのでお待ちいただければ幸いです。
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コメント
このエントリーに限り、コメント欄を開けてみることにします。コメント欄でのやりとりなら、もう少し自分の思っていることを書けるかもしれないと考えました。ご感想やご質問等はこちらまでいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月16日 (日) 21:17
瀬名秀明さん
はじめまして.サイエンスカフェ・ポータルの管理をしている立花と申します.
瀬名さんの「科学コミュニケーションが大切だという人たちが集まると(他の分野でも同様だが)、やはりそこには業界の枠ができてしまう」というのは同意します.私ももっと分野の異なる方々と交流したいと思いますし,いわゆる「業界人」のたこつぼの中で閉じこもりたくありません.
あと「サイエンスカフェはどこでも隆盛です」とは必ずしも言えないと思います.自分自身もサイエンスカフェを運営していて感じるのですが,集客にはかなり苦労しているところもありますし,私が訪ねたことのあるカフェでも参加者が数人(一桁)というところもままありました.とくに個人レベルで運営する場合,参加者があまりに少ないとまるまる会場費などの経費をまるまる肩代わりせざるを得ず,負担も少なくないのです.これが,「官製」以外のサイエンスカフェが広がらない大きな理由かなと感じています.
投稿: K_Tachibana | 2008年3月16日 (日) 23:21
立花さん、はじめまして。
サイエンスカフェについてのご指摘ありがとうございました。私も何度か持ち出しのイベントを企画したことがあり、個人レベルで運営するときの経費と熱意の持続は大変だろうと思います。自分としては「官製」のものに限らず、できる範囲で少しずつ、今後もそういった活動ができればと考えています。
集客型のサイエンスカフェではありませんが、昨年、仙台市の書店員さんのご厚意で書店内のカフェを予約して、学生さんたちと課外ゼミをやってみました。最初は「こんなところでやると他のお客さんに迷惑がかかるかも」と思っていましたが、結果的には混乱もなく、かなり自由な雰囲気で楽しくできました。私は特殊な立ち位置なのだろうと思いますが、だからこそいまできることがあり、学生さんたちや一般のお客様たちに還元できることがあればいいなと感じました。
今後ともぜひご声援をいただければ幸いです。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月17日 (月) 06:18
「実験」の問題は、「水からの伝言」で語られてしまうと首を縦に振りようがないので、できれば切り離してもらいたいです。
しかし、それでは話が進まないので、では僕たちがその代わりとして実際になにをやっているのかをお話しします。
僕たちがやっているのは、「平松式人工雪」の実験です。テレビ局が「水からの伝言」の実験をしたいと言ってきたときも、議論をして「平松式人工雪」にしてもらいました。これは同志社女子大の左巻さんにお願いして、指導していただきました。
その後、僕自身もカフェの企画や高校生の体験入学やその他の機会を捉えて、「平松式人工雪」を何度かやっています。今年も小学生相手の科学イベントでやることになっています。
この実験では、中谷宇吉郎と中谷ダイアグラムの話をしたり、雪の写真集を見せたりして、雪の結晶形は「温度と水蒸気量で決まる」ことを説明し、それから「人工雪」の実験を自分たちの手でやってもらいます。僕はこのために実験装置(ホームセンターで集めた部品で作れる簡単なもの)を10セット以上用意しました。
僕たちは、やるべき「実験」とはこういうものだと信じています。「水からの伝言」のようなものに直接検証実験をする意味はないです。それよりは、中谷の業績を教えて、人工雪を自分たちの手でやってもらうほうが、圧倒的に教育効果は高いし、長い目で見て、そのほうが「科学を伝える」ことになるはずです。
少なくとも、僕たちはそう考えてやっている。あらゆる実験を否定しているわけではないし、むしろ子供や一般向けに実験をやっているのですが、でも、意味のない実験をするつもりはありません。
ちなみに、上で書いたカフェの件ですが、一般の意味のサイエンスカフェではないものの、カフェで科学の話をする企画を何年も前からやっています。その一回として人工雪もやりました
投稿: きくち | 2008年3月17日 (月) 19:38
>「水からの伝言」のようなものに直接検証実験をする意味はないです
水からの伝言は科学とは関係がないものなので、科学で検証するようなものではない、と私も思います
投稿: 室井健亮 | 2008年3月17日 (月) 20:23
すみません、追記です。
科学と関係のないものに対して、「それは科学で否定されています」といったような言い回しにも私は大きな違和感を持ちます
投稿: 室井健亮 | 2008年3月17日 (月) 20:29
もう一点。
「笑い」の効用について。
僕たちは(あるいは僕は)今のニセ科学批判の中で「笑う」というメソッドをほとんど使っていません。あるいは「と学会」的なメソッドと言ってもいいですが。
たとえば、mixiの「水からの伝言」コミュニティで僕が発言した部分だけを切り出したものが
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1130343337
にあります。対話はこんな感じですね。
ニセ科学批判において、「笑い」は限定的にしか有効ではありません。それはおっしゃるとおりだと思います。少なくとも、「善意の信奉者」と語る際にはそうです。その点について、僕たちは(少なくとも、自分としては)慎重に振る舞っているつもりです。対談でも繰り返し話していますが、僕たちは「善意」を相手にしなくてはならないことがままあります。それはこちらも悩まずにはできないですよ。
「と学会」は「ニセ科学批判」の団体ではないので、それとは分けて考えていただけるとありがたいです。
むしろ、よく言うのは「ニセ科学を笑い飛ばせるような社会が目標」ということですね。
投稿: きくち | 2008年3月17日 (月) 21:14
水伝のような科学と無関係なものを、科学で正否を問おうとするのは、科学に対して余りに過大な期待をしているような印象を私は持ちます。科学に対してどんな理想を持つかは人それぞれでいいと思うのですが、理想と現実は一応、違うものだと思いますので。
投稿: 室井健亮 | 2008年3月17日 (月) 21:39
> 他人が謝ることでまだ勝ち負けを
> 決めているのでは。汚い言葉を
> 自分で使っていたと感じたときは、
> お互いにこれからは謝ることにしませんか。
そう思います。菊地さんは尊敬する物理学者なのでなおさらそうあって欲しいです。
そもそも嘲笑的な態度は気分が悪いですね。(水伝はNGだとは思いますが、彼らがファイアーしている一つの理由は、自分たちが馬鹿にされているという感覚だと思います。彼らだって人間ですし)
ニセ科学の反証実験はちょっと無理だと思います。結晶が出来ない実験をしたところで「念じ方が足らないんだ」とか言われるでしょうし。
例えば「火星の地底に地底人が住んでいる」という命題は科学的じゃないですけど、これが間違いだと証明するために火星の土を掘り起こすのは無意味かなと。
投稿: mg | 2008年3月17日 (月) 23:50
こんにちは、瀬名秀明さん。きくちさんのブログなどでニセ科学の蔓延問題を議論している技術開発者と申します。
きくちさんが、本書で書かれた「反証が必要か、必要でないかというだけで、ものすごい長い議論」の一部にも参加していました。その立場から一言書かせていただきます。
>ただひとつ自らを律していることがあります。それは、科学コミュニケーション業界の論理にはまらないこと。
とのことなので、自然科学のコミニケーションの論理ではない司法の論理で書いてみます。例えば「瀬名秀明さんは3月18日のいずれかの時間に、東京都のいずこかの場所で殺人を犯した」と起訴されたとします。私の知っている弁護士などは、たいていこういう起訴に対しては「そのような曖昧な要件の起訴は不当である」という部分から噛みつくことで弁護されると思いますが、被告人である瀬名秀明さんは「そのような、曖昧さに噛みつくような弁護は自分は嫌だから、アリバイ反証を試みてくれ」とそういう弁護士を拒否されてアリバイ反証にかける弁護士を選ばれるのだろうと思います。でもって、その日の瀬名さんの行動は前の日から名古屋に行っていて会議で3時までは人と会っておられたのだとしましょう。検事の起訴要件が曖昧でなく、「3月18日の2時」であるなら、アリバイ反証は成立しますが「3月18日ののいずれかの時間」であれば成立しません。場所に関しても東京都の八丈島であれば、たぶん成立します(時刻表マニアではないので自信はありません)が、東京都のいずこかの場所であれば成立しません。かくして、弁護士のアリバイ反証は失敗し、瀬名さんは有罪となることになります。
とまあ、かなり無茶なたとえ話を出していますが、「提唱者がきちんと立証出来るだけの具体性を示すこと」というのは、別に自然科学のコミニケーション論理ではなく、社会の合理性を保つために必要な社会論理だろうと考えています。
実のところ、この司法のたとえ話を出したときに考えたのですが、「起訴要件が曖昧であるから不当起訴であり被告人は無罪」といった判決などは、傍聴人にとってなんともすっきりしないものであるわけです。えん罪事件などの無罪判決でも「起訴要件が怪しい」で出る無罪判決などは傍聴人から「でも本当は・・・」という感想がでるものです。実のところ、そのすっきりしない事に関するいらだちのようなものは、証拠を固めずに起訴した検事に対して向くべきものであり、「起訴要件が曖昧だ」と噛みついた弁護士にむくべきものでは無いのですが、そのあたりがどうも短絡的に弁護士に向いている感じを受けるわけです。
投稿: 技術開発者 | 2008年3月18日 (火) 09:21
> 提唱者がきちんと立証出来るだけの具体性を示す
そうでなければ科学的主張ではないということには同意します。一方、例えば、飲料水の会社がCMでタレントに「うまい」と言わせて非科学的主張を流布しようとすることに特に問題があるようには思えません
投稿: 室井健亮 | 2008年3月18日 (火) 11:44
本の批評内容に関しては、そんなものか、という感想ですが、「嘲笑された話」および「実験の話」については、少々内容がナイーブという感想をもちました。
前者については、科学者としてはともかく、小説家の主張としてはナイーブ。
後者については、小説家としてはともかく、科学者の主張としてはナイーブ。
それから、「Nature medicine」の「飽和水素水」の話に限れば、現段階でニセ科学候補の例えとして持ち出すのは適切とは思えません。
投稿: 則内 | 2008年3月18日 (火) 12:05
皆様
たくさんのご意見、ご感想ありがとうございます。本日の夜より、少しずつお返事いたしますので、お待ちいただければ幸いです。また引き続きご質問等ございましたらぜひお願いいたします。
則内様
ご感想ありがとうございます。
どのような面でナイーブだとお感じになりましたか。
太田成男さんらの「飽和水素水」の研究は、もちろん現段階では「ニセ科学」ではありません。ですのでグレーゾーンに直面する当事者となったとき、私たちはどのように判断しなければならないのか、を考える一例として示した次第です。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月18日 (火) 14:40
皆様からのご意見を拝読し、まずひとつ集約できるのは、
最初のエントリーでは
・明らかな「ニセ科学」(『水からの伝言』) 以下、「ニセ科学」と表記
・科学の先端に位置するグレーゾーンの研究成果(自然発生説、飽和水素水) 以下、「グレーゾーン」と表記
・日常で直面する科学的諸問題(健康食品への態度等) 以下、「日常諸問題」と表記
の話が区別つきにくいので、きちんと分けて論じてほしいということだと理解しました。
これらの話題はいずれも緩やかにつながっており、だからこそ対応が難しいのだと思います。つながっているのだという意識を持つことが大切なので、意識の流れとしては最初のエントリーのようにならざるを得ないところがございます。最初のエントリーは『信じぬ者は救われる』に対する読後感想文ですから、もとの書籍の内容に呼応して、私の文章も「もやもや」としたものになりつつ、そこから一歩踏み出す希望を述べて終わっています。
そこから一歩先、すなわちこのように議論が進んでゆく段階では、もちろん区別して論じてゆくことが重要で、その点大いに同意するところです。
もうひとつ、多くの方のご意見から読み取れるのは、
・『水からの伝言』は明らかに科学ではないのだから(つまり「ニセ科学」)、科学の問題とは切り離して対応するべきではないか
ということだろうと思います。
これは原則的にそうであってよいと私も考えますが、次のふたつの視点を読後感想文では盛り込みました。すなわち、
・きっかけはニセ科学であろうと、そこから科学への好奇心が育つことは大いにあり得る。その芽はなるべく摘み取らない対応が望ましいのではないか。
・「明らかに科学ではない」と言い切ることは、言葉上は簡単であっても、その信念はさまざまな事象から形成される。躾として憶えておくことも大切だが、広い範囲で信念を適用するためには、「世界」に根ざした強い科学的理解力が必要と考えられる。そういう強さ(力)を持つ人が少しずつでも増えてゆく社会のほうが望ましいのではないか。近距離的にはもちろん『水からの伝言』を科学の問題と切り離して対応して構わないだろうが、将来を見据えた上で、さらに広がりを持った考え方は重要ではないだろうか。
『信じぬ者は救われる』には、これらの視点があまり書かれていないように感じましたので、私自身が考える希望(ある種の「救い」)として読後感想文に盛り込みました。
次のコメントから、ひとつずつ答えていきたいと思います。
#なお、こことは別の場所でもひょっとしたらさまざまな議論が起こっているのかもしれませんが、私はそれらにきちんと目を通していないので、あくまでもこちらのコメント欄にいただいたご意見のみに限って話をすることにいたします。どうかご了承下さい。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月18日 (火) 22:14
【実験のデザイン】
きくち様
こんにちは、ご意見ありがとうございます。菊池さんが以前に「平松式人工雪」の公開実験をなさったことは、間接的に聞いて知っておりました。今後も継続されるとのことで、とても素晴らしい試みだと思います。公開実験の様子を多くの人に知ってもらえるよう、気軽に読んだり観たりできるウェブページ等が増えるとよいと思いますが、つくる側の労力もあろうと存じます。私自身も科学に関する継続的なトークイベントを企画しておりますので、もしそういう場でご一緒できる機会があれば嬉しく思います。
「実験をしたい」と思う人をうまく伸ばしてあげることが大切だと私は感じていますから、必ずしもそのときに「直接検証実験」「反証実験」を用意することはないと思います。
ただ『水からの実験』に限った話ではなく、もう少し広く問題を捉えてみると、やはり身近に実験のデザインのできる人がいたほうが心強いです。うまく「科学を伝える」実験をデザインできる人ということです。ときにはそれが「直接検証実験」や「反証実験」となることもありましょう。
また、何度か無茶な「実験」を体験・失敗してみて学ぶこともありましょう。こういった失敗も長い目で見れば大切な経験と思います。このあたりはケースバイケースです。失敗したことを悟れずに繰り返してしまう、一回だけではよくわからない、という懸念もありますが、人の好奇心や論理的な心はそのあたりに対してうまく歯止めをかけるのではないかと、いまこの場では申し上げておきます。
やるべき「実験」とは何か。これを考えられるようになるには、さまざまな努力が必要ですね。
私個人としては、まず大学院生や研究者らとの対話を続けてゆく。また講演等のアウトリーチ活動で、できることを少しずつやる。将来は自分の生活範囲内で、たとえば家族などとの会話などを含め、努力を続けてゆくだろう、という感じです。
室井健亮様
こんにちは、ご意見ありがとうございます。
>水伝のような科学と無関係なものを、科学で成否を問おうとするのは、科学に対してあまりに過大な期待をしているような印象を私は持ちます。
上述したような考え方でいかがでしょうか。理想と現実は違うものの、いくらか重なる部分もあります。私はこのような重ね方で両者を捉えています。
なお私も、科学と関係ないものに対して、「それは科学で否定されています」といったような言い回しには大きな違和感を持ちます。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月18日 (火) 22:16
【提唱者からの具体性】
技術開発者様
こんにちは、ご意見ありがとうございます。
ちょっと例え話の意図がうまくつかめていないかもしれないですが、技術開発者様のお話は、
>「提唱者がきちんと立証出来るだけの具体性を示すこと」
という原則は、『水からの伝言』に限らず、ニセ科学、グレーゾーン、日常諸問題にも当てはまるので、そこを基盤に考えたほうがよいのではないか。また事象が曖昧なとき、えてしてそれに対する苛立ちは指摘した側に向かうものだが、本来は提唱者のほうに向けるべきではないか。
というご意見だと読み取りました。もし間違えていたらご指摘下さい。
ニセ科学についていえば、「提唱者がきちんと立証出来るだけの具体性を示すこと」という原則に基づいて反論することは妥当だと私も思います。苛立ちのベクトルについての解消法は……、私にはうまいアイデアがありません。ただ、無罪であることへのもやもや感と、司法手続きや弁護内容そのものへのもやもや感の両方があるようにも思いますので、手続きに対するもやもや感はなるべく少なくしておきたい、というところではないでしょうか。
グレーゾーンについてですが、もちろんこれも「提唱者がきちんと立証出来るだけの具体性を示すこと」の原則が大切だと思います。自分がグレーゾーンの当事者になったとき、どうすれば「きちんと立証出来る」か、そのデザインを考え抜くことの強さが求められるのでしょう。
技術開発者さんの例え話は、どちらかというと「グレーゾーン」よりは「日常諸問題」に近いでしょうか。ここではなかなかアリバイ立証が難しいわけで、悩ましいところだろうと思います。むしろ「具体性」というよりは曖昧な「社会の合理性」を選択することもあろうかと思います。アリバイ立証はしていないが、合理的であるということです。社会という要素が多分に入り込むわけで、私はそれを「社会的知能」と呼んでいます。ここでのもやもや感の解消法も、厳密にいえば私にはわかりません。
それぞれの場合において、それぞれの希望、救いがあるような気がします。問題をクリアにしていただいたことに感謝いたします。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月18日 (火) 22:17
【「笑い」の効用】
mg様
こんにちは、ご感想、ご意見ありがとうございます。
『パラサイト・イヴ』の刊行当時のことについては、新潮文庫版のあとがきで回想してみました(菊池誠さんのことは出てきません)。当時はいろいろとヒートアップした状況だったと思います。
「ニセ科学の反証実験」が必要と考えているわけではなくて、上述したような考え方なのですが、いかがでしょうか。
きくち様
「と学会」とは区別して述べたつもりでした。私としては、相手が「善意の信奉者」であるかどうかに関わらず、やはりニセ科学批判においては「笑い」よりも別の手段を採った方がよいように思えます。笑いの対象は人ではなく事象そのものであってほしいですし、また事象を笑っているようでもいつの間にか人を笑っているという状況はよくあると思うからです。もしそういう状況を見かけたら、互いに注意し合った方がいいのではないか、と私個人は考えています。
「と学会」のメソッドとして、作品や現象自体を笑う分にはいいと思います。最初の『トンデモ本の世界』が出たとき、私はすぐに読んで周りの編集者らに薦めて回っていたくらいです。「笑い」の対象が人にシフトしてしまうようなときは、ケースバイケースですが、危険ではあると思います。
ご紹介いただいた記事は、以前に拝読したことがありました。「笑い」の対象や、その程度、込められた意味などをどのように想起するかによって、ひょっとしたら話が噛み合わなくなるのかなと思いました。
さて、本の話に戻ります。『信じぬ者は救われる』は、以上のような意味で来るべき次の書籍への助走と読めました。著者らふたりの「つきもの落とし」のような役目であって、著者らには必要な書籍ですが、必ずしも読者の側からすると満足できるものではなかった、という感想です。こちらは「もやもや」するので、そのような「もやもや」感を生のまま広めてしまうという意味では、もう少し編集者の介入があってもよかったのではないかとも感じました。この本は「ニセ科学」限定の話題ではなく、広く科学と人間の心について、また「信じる」ことについて語ろうとしているように読めたためです。
著者のおふたりが今後この問題についてさらに書籍を刊行することも期待しつつ、読後感想文では自分が思う希望(あるいは一種の「救い」)の一部を述べさせていただいた次第です。
今後もご質問等にはできる範囲で答えていきたいと思いますので(ときどき遅れるかもしれませんが)、ぜひこちらへ引き続きお寄せいただければ幸いです。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月18日 (火) 22:18
(嘲笑された話)
根拠のない誹謗、中傷、悪罵でない限り、好ましい、好ましくないは別として、嘲笑も批判の一種だと思っています。特に文学や芸術の場合は。
著者がどのように書いたつもりでも、上梓された作品を読者がどう読むかがすべてだと考えます。批判に対する反論なら自由にやればよいと思いますが、嘲笑された(と考えている)相手に暗に謝罪を求めるのは、私が小説家ならしないだろうなということです。
(実験の話)
これはどちらかというと、日本的な意味の「ナイーヴ」をイメージして使いました。私も「水伝と実験」のややこしい議論に少しは目を通してきたので、ここで述べられている実験観は実に単純素朴だなと感じました。
(飽和水素水の話)
上での「候補」という言葉は「グレーゾーン」と同じ意味で使っています。グレーゾーンをどう定義するかにもよると思いますが、新しい研究をすべてグレーゾーンと呼ぶのならともかく、現段階で、ほとんどが結果で、仮説らしい仮説も登場しない研究にその言葉を使うのは妥当とは思いません。
といっても、私にもこの研究に対する個人的な見方はあるわけで、決してグレーゾーンではないと言っているのではありません。当然個人的にどう考えるかは皆自由ですが、だれもが自由に読めるブログでの具体例として持ち出す段階ではないと私は考えているわけです。
投稿: 則内 | 2008年3月18日 (火) 22:27
瀬名様、ご返答ありがとうございます
本題ではなく単なる言葉の話なのですが、「非科学だ」というだけで「ニセ科学」と呼称するのは、避けた方が無難だろう、と私は考えています
水からの伝言は明白に非科学ですが、ニセ科学と言えるかどうかは、私自身は判断を留保しています
投稿: 室井健亮 | 2008年3月18日 (火) 23:02
則内様
ありがとうございます。
>根拠のない誹謗、中傷、悪罵でない限り、好ましい、好ましくないは別として、嘲笑も批判の一種だと思っています。特に文学や芸術の場合は。 著者がどのように書いたつもりでも、上梓された作品を読者がどう読むかがすべてだと考えます。
誤解のないよう書いておきますが、上記の則内様のお考えに、私もまったく同意しています。「作品」への批評の一手段として、とうぜん嘲笑も含まれると思いますし、それに対して作者がむやみに謝罪を求めるのはとても恥ずかしいことだと感じます。また作者自身が「作品」の読まれ方を制御できるとはとうてい思えませんし、私はそんなことをしようとも思いません(ちょっとだけ誘導することはよくあります。インタビューなどで、作品のテーマや理念を語っておくというやり方です。またこれは菊池誠さんがおっしゃる「ジャンル性」の問題に深く関わってきます)。
ただ、さまざまな風通しをよくするため、お互いに気をつけることはあるだろう、とは思います。つまり好ましいか好ましくないかの話です。たとえば私は、作品ではなくその読者を嘲笑するような批評記事は好きになれません。「こんな小説を読むやつの気が知れない」というタイプの批評です。少なくとも自分では、そのような批評活動は絶対にしないと心に決めています。
そして「根拠のない誹謗、中傷、悪罵」には、作者が反論する意味もあろうと思います(消耗するのでやらない方が得策だ、という考え方もとうぜんあります)。
嘲笑の対象が作品そのものに向かっているかどうかは、判断の難しいところもあろうと思いますが、「自由に読めるところ」ではお互いに注意した方が風通しがよくなると感じています。むろんすべてを統制することはできませんから、少なくとも自分自身については律しておく、必要だと感じたときは互いに注意し合う、ということだろうと思います。
SF業界では、90年代後半に「SF冬の時代」論争が起き、「これはSFではない」といういい方は妥当かという議論もありました。「「これはSFではない」といういい方は作品論を超えて作家自身への嘲笑につながるからやめよう(TPOに合わせて注意して使おう)」という提言に対して、言論抑制であるとの見方もあったようですが、確か私が出席したそのときの日本SF大会では「これは躾の問題である」ということでいちおうの決着を見たと記憶しています。それと類似した状況を私は想定しています。
もしかしたら読み間違えているかもしれませんが、ここが則内様と私のいちばんの相違点だと思うので書きます。たぶん則内様がお感じになる「ナイーブ」さの一部は、私にとってはむしろ、とてもタフで、無性にカッコいいことだと思えるのです。
このような考え方は、現在では少数派かもしれませんが、決して私ひとりだけの特殊なものではないとも感じています(『境界知のダイナミズム』などに対する読者からのご感想を受けての強い実感です)。私はそのようなタフネスを発揮している人を見かけたら、熱心に応援したくなります。もっともっとそのような人が今後増えてほしいとさえ思います。
その意味で、
「科学者としてはともかく、小説家の主張としては」
「小説家としてはともかく、科学者の主張としては」
という並記を拝読して、これこそが本質的で難しい問題だと感じました。私たちはこのように、常に場合場合によって他者から属性を規定されて生きていますが、これからはこのような問題に直面する作家かつ科学者の人も増えるだろうと思います。ひとりひとりが模索すべき問題ですが、私もこれからさらに精進しなければならないなと改めて感じました。
「グレーゾーン」についてです。どちらかというと、常識を覆されるような新規の実験事実、という意味を込めて使いました。たとえば「水素水」についていえば、それ以前に「還元水素水」というものがあり、それと混同されることで「水素水」は「ニセ科学」と思われてしまうような土壌があったと思います。このように判断を誤ってしまいがちな社会的状況がある場合も「グレーゾーン」といえると思います。
従いまして、新しい研究をすべて「グレーゾーン」と考えているわけではありません。多くの一般的研究は、やりながら妥当性が見抜けるとは思いますが、本当に切っ先にいるような場合は、研究にしろ執筆にしろ、私自身なかなかその妥当性がわからないといった事態に直面したことがございました。そこから先へ行くための強さは大切だなと感じている次第です。
先の読後感想文では、そのような事態に直面したときどうしたらよいだろうか、という一例として挙げています。たとえば「ミトコンドリアが生殖細胞の形成に関与している」という話題との差し替えも可能だろうと思います。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月19日 (水) 04:09
室井健亮様
ありがとうございます。
なるほど、「非科学」と「ニセ科学」の使い分けですね。
うまく語感がつかめませんが、発信者が意図的に科学の纒いを利用しているかどうか、ということでしょうか。「ニセ科学」という呼び方自体がハラスメントと思われるような事態は避けた方がよい、ということかと思いました。間違っていたらすみません。
皆様
多くのご感想、ご意見に心から感謝しております。これから数日間、都合によりブログにアクセスできなくなりますが、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月19日 (水) 04:11
こんにちは、瀬名秀明さん。
>無罪であることへのもやもや感と、司法手続きや弁護内容そのものへのもやもや感の両方があるようにも思いますので、手続きに対するもやもや感はなるべく少なくしておきたい、というところではないでしょうか。
実のところ、司法の世界ではこの手続き的な「もやもや」観を防ぐための理念があるわけです。それは「推定無罪原則」というものです。上では「時間場所を特定しない」というかなり無茶な起訴の例をだしましたが、実際のところこれほど酷い不当起訴は現在の日本ではおきないはずです。それは、「推定無罪原則」の中で検事が公訴を提起するためには、具体的事実の提示が必要とされるからです。
きくちさんのブログの中でニセ科学批判をしていて、私が指摘した事の一つが「社会の健常な保守性」という事です。私は良く「東京-大阪を3時間で結ぶ列車」などという例を挙げるのですが、それを誰か数人が提唱しただけの時、庶民は「夢を見るな」とあざ笑っていてもかまいはしない、というかそれが普通の姿だという訳です。提唱者が「こうやって、こうやったら」と具体的な根拠を示しても、まだ庶民は嗤っていてかまわない、なぜなら、自分たちにその証拠を吟味する力は無いのだから、なんていう訳です。提唱者は自分の努力で証拠が吟味出来る専門家に説明して説得し、多くの専門家が「できるから作ろうよ」と言い始めたきに、庶民は「大阪見物に行きたいから作ってよ」と言い始めれば良いなんて事を行っている訳です。こんな考え方の元には「推定不在原則」なんて洒落を言うのですが、「専門家がかなり揃って『ある』とか『できる』と言い出すまでは、無いと思う」みたいな原則でかまわないという思いがあるわけですね。その原則に基づいて社会に生ずるのが「社会の健常な保守性」なのじゃないかと考えているわけです。
実のところニセ科学の蔓延をみているときにこの「推定不在原則」が崩れ、「誰かがあると言い出したら、必ず取り上げて判断をしなくてはならない」みたいな雰囲気が生じていて、それが社会の健常な保守性を崩している感じをうけるわけです。司法で言うなら「推定無罪原則」が崩れ、検事が証拠を持たなくても全て裁判にしている感じでしょうかね。
投稿: 技術開発者 | 2008年3月19日 (水) 09:04
技術開発者様のように
> ニセ科学の蔓延
という主張に「推定無罪原則」の適用を除外される方々が中にはいてもいい、と思います。
一方、私自身は、今のところ、ニセ科学という事象(?)に関する専門的調査が行われて
いるということは寡聞にして知りません。技術開発者様は、ご存知でしょうか。
投稿: 室井健亮 | 2008年3月19日 (水) 10:21
「ニセ科学には笑いを浴びせよう、それが最大の批判効果をもたらす」について。
まず一点、確認しておきたいのですが、この話は書評していただいた対談本には出てこないですよね。もしかしてひと言くらい言ったのだったかなと思って、読み直したのですが、書いてないのではないでしょうか。
その意味で、まずこの場にこれを書かれたことは極めてミスリーディングであると申し上げておきます。もちろん、「書いてあるように読めた」と言われてしまえば、ごめんなさいと言うしかないですが。
もちろん、僕がこれまでそういう話を言いもしていなければ書きもしていないというつもりはなくて、むしろそれに類することを書いた記憶はあります。いつどこでどういう文脈で書いたのだったか、過去の文章を検索してみたのですが、今のところ該当する文章をひとつしか見つけていません(96年の文書に書いたかと思ったのですが、ありませんでした)。
問題の文章は、今はなき「SFオンライン」誌の第55号(2001年)に掲載した「トンデモ本の世界R」の書評です。瀬名さんが言っておられるのはこれのことでしょうか。
今ではネットで見られないので、該当部分を少々長めにコピーしておきます
............
ひさびさの真打登場とでもいうべき本だけに、気合がはいっている。なにしろ、第一章を「社会派トンデモ本」として、冒頭から『戦争論』(小林よしのり)、続いて『買ってはいけない』(週刊金曜日)と左右両派の大物を並べているのだ。
この2冊のでたらめぶりは、心ある読者なら既に承知しているかとは思う。といっても、この2冊がベストセラーになったっていう事実からして、そもそも “心ある読者”なんて世の中にどのくらいいるの、という疑問を抱かせるに充分だったりして。また、どちらもイデオロギー色の強い本だけに、批判する側もされる側もイデオロギー論争に陥りがちで、“事実かどうか”という基本的な問題が往々にしておきざりにされる傾向がある。
特に『戦争論』について、執筆者の山本弘氏は、事実を踏まえたまともな批判は戦史マニアの同人誌にしか見られない、という実に痛快な指摘をしている。そりゃそうだ。詳細な事実だけに興味があるなら、マニアに聞くべきなのだ。鉄道のことは鉄道マニアに聞け、そして戦争のことは戦争マニアに聞け。普段ならなんの役にも立たないマニアだって、その知識が必要とされるときもあるのだ。
一方の『買ってはいけない』は、なにしろ僕もこれがあまりにひどいんで『金曜日』本誌の定期購読をやめたというくらいひどい代物。著者たちは善意の市民運動を食いものにしているという点で、『戦争論』より更にたちが悪い。ただし、争点が科学の問題として比較的はっきりしているだけに、すでにそれなりの批判書も出ている。敢えて今この本を取り上げるのは、むしろ左右両派のインチキをひとまとめに笑っておこうという意図かと思う。
それにしても、熱烈なシンパが多いこの2冊をこれだけ大々的に笑い飛ばすには覚悟がいるはずだ。笑うのだって、命がけ。いや、実際、笑いは時として最強の武器となる。ん、笑い飛ばしてるというよりは、怒ってるように読める? うーむ、どちらもあまりにたちが悪すぎて、怒りが溢れちゃったか。でも、いいのだ。僕らは笑い飛ばせばいいのだ。本書の帯にだって、“まとめて笑ってあげましょう”と書いてある。ただし、『戦争論』や『買ってはいけない』信者の目の前でも笑い飛ばしてみせるだけの勇気を持ちたいもの。
.......
瀬名さんの指摘がこの文章に基づくのだとすれば、たしかに、今ならここまでは書かないだろうということを書いていますね。
2001年なので、まだ『水からの伝言』問題に取り組む以前で、『買ってはいけない』に対する怒りが収まっていない時期です。
いくつか言っておくと、あくまでも本とその内容(たとえば、『買ってはいけない』)を笑い飛ばして見せるということであって、「信者を笑え」ではないことと、「ニセ科学」全般ではなくてここではきわめてイデオロギー色の強い「政治的ニセ科学」に対して「笑い」で対抗することを書いています。
いちおう、それだけのことは言った上で、いっぽう、たしかに今ならここまでは書かないだろうということも認めておきます。瀬名さんはあたかも自分だけは成長したかのように書かれていて、少々ずるいのだけど、もちろん僕も前よりは表現が強烈ではなくなっているわけです。必ずしもいいことではないかもしれませんが。
もしこの文章のことではないというのでしたらご指摘ください。僕は今のところほかに見つけられずにいるので。いや、ほかにもあったような気はするのです。
この文章でよければ、あとは読者の判断にまかせます。
投稿: きくち | 2008年3月23日 (日) 10:50
ひとつ前のコメントに修正。
もちろん、『戦争論』はニセ科学ではないです(ニセ歴史科学とかニセ政治学とかなのかもしれませんが)。上では両者を「政治的トンデモ」とするべきでした。そのうち左を代表する『買ってはいけない』は題材が明らかに科学なので「ニセ科学」であるということです。なお、この書評の時点では必ずしも「ニセ科学」という言葉を使っていません。
ここでの「笑いは武器になる」は、『買ってはいけない』にも『戦争論』にもあてはまる話として書いていることをいちおう言っておきます。
投稿: きくち | 2008年3月23日 (日) 11:01
これは瀬名さんへの業務連絡です。
コメントを寄せている室井某(別名、ふま、比ヤングなどなど)は、「ニセ科学」関係のブログに現れては議論を混乱させるのを趣味にしているだけなので、まじめに対応されないことをお薦めします。最初は一見まともなことを書くので、つい相手をしてしまいますが、目的は議論の混乱だけですので、時間の無駄です。
瀬名さんがどうされるかはもちろんご自由ですが、いちおう注意はしておきます。
ちなみに、うちのブログでは即刻削除です。「即刻削除ではなく、言論で説得すべし」などという話は、こと「ふま」君に関する限り、我々にとってはとっくの昔に済んだ話で、これもまたここにはとても書ききれないほど「長い長い議論と回り道」があったのちの結論です。
投稿: きくち | 2008年3月23日 (日) 11:16
もう少し、コメントを書きます。
コメントへのコメントですが
............
「「これはSFではない」といういい方は作品論を超えて作家自身への嘲笑につながるからやめよう
(TPOに合わせて注意して使おう)」という提言に対して、言論抑制であるとの見方もあったようですが、確か私が出席したそのときの日本SF大会では「これは躾の問題である」ということでいちおうの決着を見たと記憶しています。
.....
について。
僕自身は「これはSFではない」という言い方をなんら問題とは思っていないので、「躾の問題」などという決着を誰がつけたのか知りませんが、それに首肯することはできませんし、その決着に従う気もなければ理由もありません。
これは、「SFとは何か」という問題にかかわるものですから、個々の読者の「SF観」と直接つながっていはずのものです。「SFは何でもあり」と思う人にとっては、「SFではないもの」などないでしょう。そういう人は「SFではない」と言わないはずだし、言う必要もありません。それはその人の「SF観」です。
いっぽう、「SFはジャンル小説である」というのが僕の強固な「SF観」です。ジャンル小説なので、当然「体裁はSFのようだが、SFではないもの」というのはあります。殺人事件が描かれていればすべて推理小説か、という話に近い。実際、僕の「小説観」は『黄色い部屋はいかに改装されたか』に強く影響を受けていますから、「ジャンル意識」というのは、僕にとって非常に重要なものです。
別に「似非SF」という「悪い」レッテルを貼ろうというのではなく、少なくともこの時点では「ジャンル外である」ということを言っているだけです。
「「SFではない」と言うな」というのは、自分のSF観なり文学観なりを主張するなと言われているように思います。自分の文学観をそういう形で封じられるいわれはないし、また、文学というのはそういうものではないでしょう。
「「これはSFではない」は作家自身への嘲笑になる」というのもまたかなり妙な意見で、本来なら個々の「SF観」をたたかわせるべきところを個人の「道徳」の問題に貶めたものに見えます。
「作品と作家はどこまで分離できるか」というのは永遠の課題かもしれませんが、少なくとも、各作品に対して「この作品を書いた作者はだめである」という評価はあってしかるべきです。同じ作家が次に傑作を書けば、「この作品を書いた作者はすばらしい」となるだけの話です。だからこそ、時として「これがあの作品を書いたのと同じ作者の作品とはとても思えない」といったたぐいの書評が出るわけです。
僕はその場にいなかったので、本当はどういう話の流れだったのかわかりませんが、もし本当に「躾の問題」という決着だったのだとしたら、少なくとも僕には衝撃的です。
投稿: きくち | 2008年3月23日 (日) 14:45
「ニセSF」は良くて、「ニセ科学」は悪いという論理が良く分からないのですが。
ま、それも個人の価値観なのでしょうけれど…
「ニセ科学の悪用」は問題であるということは、もちろん、私も認めるところです。
投稿: 室井健亮 | 2008年3月24日 (月) 00:33
すみません、追加です。きくちさんのご意見に、私は全く同感でして
「「これは科学ではない」は主張者への嘲笑になる」というのもまたかなり妙な意見で、
本来なら個々の「科学観」をたたかわせるべきところを個人の「道徳」の問題に貶めた
ものに見えます
ということです。悪用について非難するのは当然ですが、単に「ニセ科学」というのは
「科学観の相違」でありませんか?
投稿: 室井健亮 | 2008年3月24日 (月) 00:40
ニセ科学問題の本質を、今更「悪用」という言葉で矮小化しようとしても無駄だからやめた方がいい。そこだけに留まらず、もっと広い視野に立って何が問題なのかを考える修練を積まないとね。少なくともこんな子供じみた思いつきの語呂合わせに自己陶酔しているうちは誰にも相手にされないと思いますよ。
投稿: 則内 | 2008年3月25日 (火) 11:39
きくち様
ありがとうございます。返答が遅れましたことをまずはお詫びいたします。
今回いただいたコメントに対して返答しようと思いましたが、念のためトラックバックをいただいた皆様からのエントリーと、それへのコメントも、一通り改めて拝読いたしました。
そこで、いただいたコメントに即して答えるよりも、もう少し全体的にお答えした方がいいだろうと思っております。
【フェア】
まず申し上げておきます。私の最初のエントリーは、感情を吐露する部分もありましたが、おそらくきくちさんがお考えになるようなフェアネスを遵守して書こうとしていたと思います。きくちさんとの過去のやりとりや、現在の私の心境をあえて最初に記したのも、これからエントリーを読む人が「なぜ瀬名がこのような感想を抱いたのか」「どこにすれ違いを感じているのか」をわかるようにしておきたいと思ったからです。いまは読み取れなくても、何年後かに読んでいただければ、それがわかっていただけるのではないかと願っていますが。
私の最初のエントリーに対して、きくちさんはご自身の「kikulog」でコメントされました(トラックバックされています)。それに対して私が追記(2008.3.16)のかたちでリプライしました。
『信じぬ者は救われる』の批評内容についてはよくわかるとのお話でしたし、意見の相違がある「科学とは何か」については私もぜひいつか話をしてみたいと返しており、この件についてはここでお互い納得したと考えています。後者については直接の対談で、できれば公開トークイベントのようなかたちでやってみるのがいいだろうと思っています。そのほうが文芸や科学を豊かにできると考えるので。
さてきくちさんは「kikulog」で、拙作のフェアネスについて語っています。きくちさんがフェアネスについて論じるようになったのは『デカルトの密室』のころからかと思います。それでこれは私の想像なのですが(間違っていたらすみません)、きくちさんはたぶん私の最初のエントリーに対して、「これはフェアなのだろうか」と問い掛けたいのではないかと思います。またそこから連想して、当時の「パライヴ論争」(皆さんに従ってとりあえずそう名づけておきますが)における瀬名の言動はフェアであったのか、というところも、いまはお考えなのではないかと思います。
最初のエントリーについてですが、先にも述べたように、私はむしろフェアに書いたつもりです。
「そうは読めない」とお感じになる場合、ふたつの事象が絡み合っていると思います。
まずひとつは、フェアであろうとしたがこちらの文章力不足でそうは読めないかもしれない、という部分。たとえば、
>この場にこれを書かれたことは極めてミスリーディングである
についてですが、私もここを書いたとき、書籍の話とは別であると認識していました。上で「kikulog」も紹介しているし、この大段落では書籍に限定しない話を進めているのですから、それをミスリーディングであるといわれてしまうのは残念です。しかしきくちさんはこれをフェアな記述ではないと感じられたわけですね。これは私の文章表現が曖昧であったことも原因ですから、ミスリーディングしやすいことについては受け容れ、お詫びします(きくちさんが笑いの効用を説いているかという話そのものについては別記します)。他にもこのような部分があれば、ご指摘下さい。
もうひとつは、これが私たちの間でいちばん重要な論点なのですが、「ジャンル性」によってフェアであるかどうかを感じる枠組みが変わる部分です。「ジャンル」を「コミュニティ意識の枠」と言いかえることもできます。これは実際のところ「科学(者)とは何か」「作家とは何か」(そして私の問題意識でいえば、「作家であり科学者であるとは何か」)の問題にも深く関わるので、いまここで簡単に決着がつくとは思われません。
『信じぬ者は救われる』で著者のおふたりが悩んでいることも、実はこの問題なのだろうと私は感じました。ですから「パライヴ論争」と「ニセ科学について論じること」はつながっているわけです。
すごく大雑把にいうと、私ときくちさんは狭義の「ジャンル性」についてはほぼ同意見を持っていると思います。しかしその「ジャンル性」を「ジャンル外」の人々とどのように語り合うのがよいのか、ということについては、すれ違いが起こっています。
「ジャンル性」は狭義には文芸評価の問題であり、広義にはコミュニティ意識の問題であると私は感じています。狭義でとらえた場合、そこにコミュニケーションを意識する必要はありませんが、広義の場合は必然的に異文化コミュニケーション問題が含まれてきます。私は当時もいまもフェアにふるまったと思っていますが(そして公平を期すならば、当時議論が始まった後はきくちさんもご自身の信念に則りフェアにふるまっていたと思います)、きくちさんのコメントを拝読する限り、さまざまなコミュニケーション問題のフェーズがまだ互いに整理できていないのかなと思います。
この件も別に補足します。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月25日 (火) 12:46
【笑い】
さて、フェアネスの話を済ませた後で、それではきくちさんが笑いの効用を説いていたか、という話に絞ってみます。ただ、
>いつどこでどういう文脈で書いたのだったか
すみません、厳密にこれだという文章を引用できないのですが、「kikulog」等で一度ならずこのような議論を拝見した記憶はあります。私の思い違いでしょうか? きくちさんご自身も
>それに類することを書いた記憶はあります
とのことですから、私の勘違いではないと思うのですが。
つまり、ニセ科学の話における笑いの効用については、すでにコメントで私見を述べたとおり。
きくちさんご自身が笑いの効用を説いていたかについては、互いに引用できないが、たぶん勘違いではないと思う。
最初のエントリーでは、あたかも笑いの効用が『信じぬ者は救われる』に記載されているかのように読めてしまう部分があった。これは瀬名の意図するところではなかったが、文章表現の曖昧さに起因するのでその点はお詫びしたい。
ということなのですが、いかがでしょうか。
なお引用いただいた文章は以前に読んでおりました。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月25日 (火) 12:46
【ジャンル】
>いっぽう、「SFはジャンル小説である」というのが僕の強固な「SF観」です。ジャンル小説なので、当然「体裁はSFのようだが、SFではないもの」というのはあります。
実はきくちさんがこのようにおっしゃることの意味を、私はかなり理解・共有できていると思っています。新潮文庫版の『パラサイト・イヴ』のあとがきには、かなり近いことを書いており、当時のさまざまな食い違いはジャンル性が孕む文学的、かつ社会的問題が原因だったのだと論じています。当時の議論は、文芸においても科学においても、(いろいろあったにせよ)意味ある問題提起と議論を残したと、私自身は考えています。
私自身、後に『境界知のダイナミズム』などにこの問題意識を発展させており、この本はたんに狭義のジャンル問題を超えて、医療・福祉の現場で働く人やビジネスマンなどにも読まれ、問題の共有がなされていますから、大いに意味はあったと感じているのです。
ですので次に述べることは、「パライヴ論争」以来の繰り返しになります。ここでのすれ違いの焦点は、「ジャンル性」をどこまでコミュニケーションの問題と考えるか、ということでしょう。
>別に「似非SF」という「悪い」レッテルを貼ろうというのではなく、少なくともこの時点では「ジャンル外である」ということを言っているだけです。
ジャンル性の話であるからこそ、たとえ「悪い」レッテルを貼るつもりではなくても、場合によっては(批評者の意図とは違ったところで)「悪い」レッテル貼りになってしまう、ということを、私は当時から指摘してきました。きくちさんは
>本来なら個々の「SF観」をたたかわせるべきところを個人の「道徳」の問題に貶めたものに見えます。
とおっしゃいますが、これはごく限定されたお話であり、私には納得できないところです。以前から私は「SFコミュニティ内でこのような言葉を使って批評することはまったく構わない。たとえばSFオンラインなどの専門媒体で『これはSFではない』という書評が載るのはまったく問題ないだろう。それはSF観の表明としてきちんと受け止められるからだ。だがコミュニティの外でも通用するわけではないからそこは互いに気をつけよう」といってきたわけです。純粋に「SF観」をたたかわせたいなら「道徳」の問題に抵触するような部分は夾雑物ですから、そんなところは控えてほしい、と私は思います。きくちさんのおっしゃる「道徳」は異文化コミュニケーションのツールなのですから。その意味で「躾の問題」だと私は理解したのですが、このような考え方であっても「衝撃的」でしょうか。
むしろ私はいまもきくちさんがこのような初期の論点を書かれることに戸惑いを覚えました。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月25日 (火) 12:48
【コミュニケーション】
先日、科学(技術)コミュニケーションに関するシンポジウムに出席したとき、ある人が「コミュニケーションとは伝えることではない。自分が変わることなんだ」と発言されていたのが印象的でした。実はその発言の前、私は自分の発表で石井健一郎氏の著作を引き、「知能はチューリングが、情報はシャノンがそれぞれ定義したことで学問が発展した。しかしいまだにコミュニケーションの定義はない。今後10年で誰か天才がコミュニケーションを定義できれば、科学コミュニケーションも発展するだろう」と述べました。従って「コミュニケーションとは自分がちょっと変わることである」というその人の発言は、出典があるのかどうかわかりませんが、強く心に残ったわけです。
「パライヴ論争」を経て、確かに私は変わったように思います。おそらくきくちさんも、いくらかの変化があったことと思います。ただ、それはおそらくきくちさんが私の変化をあまりご存じないように、私からもうまくは見えないわけです。
>瀬名さんはあたかも自分だけは成長したかのように書かれていて、少々ずるいのだけど、
というのはずるいわけではなくて、むしろきくちさんが何度もご自身を保守的だとおっしゃるように、変わらない側面を強調されるからだろうと思います。ずっと昔、きくちさんとどこかの掲示板で話していたとき、きくちさんのご発言内容に変化が見られたことを指摘し、それをむしろ歓迎する意味で述べたところ、きくちさんは自分では変わっていないつもりだとおっしゃっていました。そういったことをいま思い出します。
そこで最初のエントリーの、「お互いにこれからは謝ることにしませんか」になります。きくちさんのコメントを拝読して、この部分はたぶんまったく伝わらなかったのだろうと感じ、いま寂しさを憶えています。どのようにお互い変わりましょうか、という話であったわけです。私の意識の流れでは、そこで深く『信じぬ者は救われる』とつながっていました。
この部分がフェアではない、ときくちさんはお考えなのかもしれません(そうではないことを願います)。もしここですれ違ってしまうなら……、そのようにお返事下さい。
ただ、ひとつこちらからのお願いとして、たとえすれ違うにしても、なぜここですれ違っているのか、考えてみていただけないでしょうか。
以上、返答になっていることを期待します。はぐらかしたと思われるのはこちらもいやなので。
また「科学とは何か」については、ここでのやりとりとは別に、ぜひ一度直接お話できればと思います。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月25日 (火) 12:50
則内様
> ニセ科学問題の本質
いや、それは多分、「ニセ科学の問題ではない」のですよ。
例えばリテラシーの問題でもあったりするのでないですか?
ニセ科学という問題設定がそもそも問題を矮小化していると見るべきでしょう。
私は、その矮小さに相応しい応答をしているに過ぎません。
同じ事象に対して、ニセ科学ではない別の問題設定がなされているなら、このような応答にはなりません。
きくちさん自身が、ニセ科学という問題設定が自身が考える問題を扱うのに不充分な枠組みであることをよく自覚しているように思います。
私が感じる問題は、きくちさんが感じているはずのこの問題点が、あまり伝わっておらず、「別の問題であるはずのもの」があたかもニセ科学の問題であるかのように伝わってしまっているように思うことです。
投稿: 室井健亮 | 2008年3月26日 (水) 21:50
ブログでフェアネスについて語ったことにはなんら裏の意図はありません。「パライブ」における記述のフェアネスの問題について、僕自身は大昔に結論を出していたのですが、書く媒体も機会もなかったので、公にはしていませんでした。自由に書けるエッセイのような場を僕は雑誌に持っていませんでしたし(今もありませんが)、仮に持っていても「パライブ」について僕が何かを書くことは鬼門ですから。その意味で、議論の当時にこのような「文学そのもの」の議論は抑圧されたと僕は感じています。しかし、ごく一部の人は僕の口から直接聞いたはずです。
今回は、ちょうどいい機会だから書きました。純粋に文学の議論として読んでいただければ。
ですので、この話は、別に「デカルト」が出たこととは関係ありません。時期も関係ありません。ただし、「デカルト」がその意味でよく腑に落ちる作品であったことはたしかです。
さて、「笑い」について、自分のブログを検索してみたところ、それらしい記述がひとつありました。瀬名さんが言っておられるのは、これでしょうか。これはまさに「水伝」の検証問題についての記事についたコメントへの返事です。
......
「笑い」の威力については僕も認めています。笑い飛ばすことはとても重要です・・・というか、僕もapjさんも「と学会」会員なわけです(^^。
もっとも、すべての問題を笑い飛ばすわけにはいかないので、問題に応じて対応を分けてきました。これは別に僕に限らなくて、「と学会」の本の中にもかなり真剣な批判が紛れ込んで(^^)いることがあります。それこそ、藤倉さんの「水伝」批判とか。
で、「水伝」ですが、これが出始めた頃は僕も単に笑いの対象としてウォッチしていました。なにしろ、あまりにばかばかしいので。ただ、道徳教育の問題が出てきて、対応を考え直したほうがいいと思い、今に至る・・・のです。
「笑い」は強力なだけに、相手の反感を買う危険も多く、そのあたりは注意深い使い分けが必要でしょう。特に、現時点ではまだ教育問題が絡んでいるので。
......
これでよいのでしたら、ここでもやはり僕は「留保条件」をつけています。
僕が前のコメントで言いたかったのは、確かに「笑いは武器になる」に類した文章を「ニセ科学」の文脈で書いた記憶はあるが、「無条件」には書かなかったのではないかということです。
笑い飛ばすことが最大の効果を持つ場合は確かにあります。たとえば、同じブログのエントリーで左巻さんが、笑いは「ファシズムへの最大の対抗策でもあります」書いておられます。しかし、逆効果にしかならない場合もあります。
瀬名さんはあたかも僕が「無条件に」笑いを武器として使うことを主張したかのように書かれていますが、僕はそうではないと(少なくとも自分では)考えています。少なくとも、ここで引用した文章には「留保」をつけてあり、「注意深い使い分け」を提案しています。
投稿: きくち | 2008年3月27日 (木) 00:44
せっかくなので、上記のコメントを含む「検証をめぐるあれこれ」というエントリーのURLを貼っておきます。
瀬名さんがブログ本文の書評部分で「あざとい」と書かれた「長い長い議論」のおおむねまとめに相当する部分が議論されています。議論はこれ以前からずっと続いていますが、「長い長い議論」とはたとえばこういうものです。「信じること」についての対談本でこれを説明せよと言われるのは、ちょっと辛いですね。
この内容については、いずれきちんとした「ニセ科学」の本を出すときにちゃんと書きます。
投稿: きくち | 2008年3月27日 (木) 00:59
すみません。URLは
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1157819678
です。あるいは前のコメントに「きくち」をクリックしていただければよいです。
投稿: きくち | 2008年3月27日 (木) 01:00
「そこで、いただいたコメントに即して答えるよりも、もう少し全体的にお答えした方がいいだろうと思っております。」
そのせいで瀬名さんの回答はまったく意味不明です。
これはもっとシンプルな話でしょう。「読者が感じた通りのことを言って悪いか」――悪くないに決まってます。嘲笑・罵倒もかまわない。それが許されなければ、文壇が守り抜いてきた「表現の自由」の両輪がそろわない。そのうえ謝罪を求めるなど、大きな赤ん坊というほかありません。
投稿: 野尻抱介 | 2008年3月27日 (木) 09:51
きくちさま
先のコメントで私は、皆様からトラックバックをいただいたエントリーとコメントを拝読した上で全体的にお答えしようと思ったと書きました。トラックバック先のひとつで、きくちさんは数度にわたってコメントされており、私のエントリーがフェアではないと再三書かれておられました。またそのことをここで述べようかどうしようか悩んでおられる様子でした。ですのでフェアネスを軸に返答させていただいた次第です。
きちんときくちさんに向き合ってお話ししたかったので、今回の件で私が本当に大切だと思うことを、なるべくクリアに書かせていただきました。
きくちさんは狭義のジャンル性について語りたいということですね。了解しました。今後も念頭に置いておきます。『信じぬ者は救われる』の私の読後感想文は広義のジャンル性を視野に入れたものでしたから、その時点で視点が異なっていましたね。
詳細な検索はできませんでしたが、笑いについてはこちらの記憶が曖昧であったのだろうと思います。そのことをお詫びいたします。ただし今後きくちさんに限らず、ニセ科学の話の中で笑いの効用が語られたとき、私は慎重な立場を取りますし、「注意深い使い分け」がなされない場合には違和を表明することもあると思います。
>瀬名さんはあたかも僕が「無条件に」笑いを武器として使うことを主張したかのように書かれていますが
とのことですが、私はそのようには書いていません。ここはご理解いただきたいです。ただひょっとしたらきくちさんの誤解を招いているのかもしれないと思い、そのことをあらかじめ述べておこうと考えていましたが、時期を逸してしまいました。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月28日 (金) 04:00
トラックバック先に書いたのは、瀬名さんが読む可能性7割程度という期待です。
そこにも書いたとおり、正直、瀬名さんが今になってこのような話を一方的に書かれたこと自体はまったくフェアではないですよ。僕が選べるのは、瀬名さんの一方的な立場で非難されることを放置するか、さもなければ、こちらから見た当時の状況をいまさら「大人げなく」書くかです。
起きたことについての見え方はまったく違います。しかし、どちらを選ぶにしても、僕にとっていいことはなにもないのが困りものです。これはフェアではありません。
たとえば、当時の僕はレギュラーの書評欄もエッセイ欄も持たない「読者」だったわけですが、瀬名さんの記述からそれを読み取る人はいないでしょう。さらに言うなら、瀬名さんが問題視した発言の多くは、本当になんのメディアも持たない「純粋な読者」から出たものです。しかも、彼らがSFファンダムと深い関係があったわけでもない。
実際には、もっときちんとした媒体で擬人化を罵倒した著名人は複数いたし、彼らは基本的に「SFの人」ではありませんでした。瀬名さんが敢えて「読者」を相手にされたことについて、僕は今でもまったく納得していません。
しかし、そういう話を今さら事細かに書くことがいいとも思えない。
というわけで、とりあえず、大人気ない話はトラックバックをたどった人だけが垣間見られるということにしてあります。
ただし、そのことと、僕のブログに書いたフェアネスとはまったく関係ないです。
問題の最も「見もふたもない」側面については野尻さんがあからさまにまとめてしまわれたので、もういいかもしれませんが。
投稿: きくち | 2008年3月28日 (金) 09:37
そういう気の進まない話は置いておくとして、再び「笑い」なり「嘲笑」なりについて。
端的に言うと、文学批評(あるいは単なる感想)としての「嘲笑」とニセ科学批判の文脈での「嘲笑」や「笑い」はまったく違う意味合いを持ちます。あるいは「持つはず」ないし「持つべき」です。
そのふたつを同一視するべきではない。少なくとも、僕は同一であるとは考えません。考えるべきではない。
それを同じであるかのように扱う議論には同意できません。瀬名さんの議論は、その意味で、文脈をまったく無視した乱暴なものです。
投稿: きくち | 2008年3月28日 (金) 09:58
当然のことですが…:
野尻さん
> 謝罪を求めるなど、
いや、別に求めるのも自由ですよ。それに応じないのも、また自由ですが
投稿: 室井健亮 | 2008年3月28日 (金) 13:26
>瀬名さん
今度こそはじめまして(笑)。前回はこちらに直接コメントを差し上げるのは遠慮させて戴いたのですが、それは、過去を識る当事者でも長年ニセ科学批判を継続してきた論者でもないオレが、自然科学のインタープリターとして実績のある瀬名さんを批判することの実効を考えた場合、軽々に議論に参入すべきではないと考えたからです。
また、こちらへ寄せられたTBを辿れば、オレがニセ科学批判論者の方々と交流があることがわかりますから、「菊池さんの取り巻き」の擁護意見としてとられる懼れもあるだろう、それが瀬名「派」対菊池「派」の抗争的な見え方になるのも百害あって一利なしと愚考致しましたので、旁々自ブログにコメントを書き込んでTBを送るという迂遠なやり方を選ばせて戴きました。
しかし、三月二五日のコメントを拝見すると、すでに問題はパライブ論争の当事者性やニセ科学批判の問題を超えており、文芸作品の受け手として黙過出来ないご意見が盛り込まれていると感じましたので、文芸の受け手の一人としてコメントさせて戴きます。
オレには、瀬名さんが菊池さんの過去の行為をご自身のブログ上で堂々と批判出来るとお考えになる根拠や目的がまったく理解出来ません。瀬名さんの仰っていることは、個別の具体的な事情を捨象して純粋に理念を抽出すれば「読者は作者の意図した通りに作品を読むべきであり、見当違いの批判や誹謗に対しては、作者には読者に抗議し謝罪を求める権利がある」ということになります。
こういう暴論に野尻抱介さんのようなご叱責(これは同業者からの厳しい叱責であると思いますよ)が寄せられるのは当たり前の話で、不特定多数の読者から小説家がすべて瀬名さんのように考えていると思われたのでは、ご同業の方々にはたまったものではないでしょう。というか、そのような「奇矯な読者観」を自作の愛読者の方々がお読みになるこの場所で何故口にされるのか、その神経を疑います。
瀬名さんがパライブ論争を槍玉に挙げて感情的に菊池さんを責めれば責めるほど、このエントリーを読んでおられる瀬名作品の愛読者は、「この人は自分の意図通りに読まない読解を否定しておられるのだ」「間違った読み方をする読者に対しては、このようにお考えになっていたのだ」と受け取ることになります。それがデビュー作であるパライブに関する問題である以上、瀬名さんは作家活動の全時期を通じてこのような読者観を持たれていたのだと解釈されます。
おそらく、パライブに関してもミトコンドリアを擬人化していると素朴に読んだ読者は大勢いたはずですし、ホラー小説である以上そのような不合理な飛躍があって何が悪いの、という受け取り方の読者も多かったはずです。その意味で、パライブ論争に関しては菊池さんの擬人化批判が的外れだと感じる方々もおられると思いますが、菊池さんが仰っているように、パライブに関しては擬人化批判というテーマ自体がSF的な論題として当時広く流通していたという側面は無視出来ないはずです。
つまり、パライブを論じる場で或る拡がりにおいて共有され流通していた論題を菊池さんの掲示板でも扱った、そういう流れになるかと思います。それに際して菊池さんは批判意見の側に与して、瀬名さんの見方では「嘲笑・罵倒」されたわけですが、野尻さんの仰る通りそれの何処が悪いのか誰にも理解出来ません。
たしかに面識もない赤の他人を嘲笑・罵倒するというのは、日常的な儀礼の観点では剰りお品の良くない行為だという言い方は出来ますが、作家という公人の公人的側面に限って嘲笑・罵倒するのは、読者の当たり前に許された権利であるのが当然でしょう。それを瀬名さんが受け容れないと仰るのであれば、一〇年以上職業作家として活躍しておられる方のご見識としては驚異という外はありません。これまで瀬名作品を愛好し、瀬名さんの作家活動を支えてこられた愛読者の方々も、驚いておられるのではないでしょうか。
まして、パライブは瀬名さんの御作の中でもとびきりのベストセラーですし、職業作家である以上、ベストセラーというものが、その作品を肯定的に評価する読者や瀬名さんを作家として評価する読者だけで成立するものだとはお考えになっていないはずです。
ベストセラーというのは、「話題になっているから読む」「有名な誰それが奨めていたから読む」「この映画の原作を読んでみよう」という、作家や作品との距離の遠い読者のパイも積極的に巻き込んでいかねば、そのような膨大な部数が売れるものではないはずですし、そんなことは素人のオレが今更指摘するまでもないことです。
そして、娯楽小説を書く職業作家の倫理としては、「こんなに売れたのは迷惑だ」とは口が縦に裂けても言ってはならないはずですし、そのようなメガヒット作品があることで、パライブ以外にも瀬名さんが書きたかった作品が書けるようになったという側面もあるはずです。そして、そのように売れるということは、作者の意に染まぬ読解も受け容れるということですし、作者にとって不快で的外れに思える議論の存在も受け容れるということになるのではないでしょうか。
勿論、擬人化批判に関して「その通りです」と認めるべきだと言っているのではありません。そのような読み方が在り得ることや、それを巡ってこのようが議論が起こることも許容すべきではないか、ということです。
オレの個人的な意見では、擬人化批判というのは間違った読みではありません。そのような論題が広く流通するということは、不特定多数の読み手にそのように読ませる何かしらの技術的な課題が内在しているということで、作家にとって意味のある対応というのは、「何故そのように読まれたのか」という考察であって、そのような読みがテクストの意味的実体に対して不当であることを主張することではないはずです。
如何に瀬名さんが擬人化を注意深く避けるように配慮しておられたのだとしても、無視出来ない数の読者が擬人化していると読み取った、作家としての瀬名さんにとって意味のある事実はそれだけのはずであって、「自分はこういうふうな配慮をしているし、注意深く読めばそれがわかるはずなのに、何故そう読まなかったのか」という主張は、まあ強い言い方をすれば、職業作家にあるまじき「甘え」です。
職業作家は読者に対して注意深い読みなど要求出来る筋合いではないし、菊池さんがご自分のブログで指摘されていた「文学的な問題」というのはもっと大きなもので、意義のある文芸批評の言葉だと感じます。つまり、文芸作品というのは「そうなっているかどうか」が検証的に問われるテクストではなく、「そうなっていることをどの時点でどの程度どのように読み手に伝えているか」が問われる表現的なテクストであるべきだ、というご提言ですね。
「ちゃんと読めばわかるはずだ」というのは、職業作家として至極傲慢な言い種であって、読者は作家からそのような精読を強要される謂われなどはない。当たり前の範疇の誠意を以て読み進めばわかる範囲のこと以外、「ちゃんと読めばわかる」という言い方は出来ないものです。
菊池さんは、糞味噌の批判を加える以上はご自身の見識も問われることになりますので一応人並み以上に注意深く作品を読んだはずですが、瀬名さんが「擬人化を避ける配慮をして書いた」と仰ったことを前提に再読して漸くそれに気附いたと仰っているわけですし、実際にそのように読んだ読者は、菊池さんやその掲示板の人々だけでは決してなかったわけです。
或る粗忽な読み手が、当人以外の誰もそう思っていないのに変なことを言い出して批判を加えているというのであれば、公平に見積もってそれはその読み手個人の見識の問題であると言えるでしょうが、当時そのように読んだのは菊池さんだけではなかったと聞いておりますし、そうでなければ論題として流通しないでしょう。不特定多数の間で、無視出来ない規模で一定の「誤読」が流通しているのであれば、それは読み手の問題ではなく書きようの問題だと解釈するのが理に適っていると思うのですが、如何ですか?
そして、パライブ論争への言及において、瀬名さんは一貫して菊池さんの嘲笑・罵倒を問題視しておられ、ご自分の作家的技倆への反省のほうを重んじる気配は一向になかった、これはやはり職業作家の対応としては恥ずべきものでしょう。
はっきり言って、瀬名さん以外の人間にとって、瀬名さんへの嘲笑・罵倒というのは大した問題ではないんです。瀬名さんが不当な批判に基づく嘲笑・罵倒に対して不快感を覚えられたとしても、それは私人としての感情の問題でしかないからです。
すべての作家は…強調しますが「すべての作家」は、必ず当人視点において不本意な読解に基づいた嘲笑・罵倒を不断に浴び続けているものです。それは職業作家という立ち位置に伴う不可避的な側面ですし、私人としての職業作家が糞味噌の酷評や誹謗に感情レベルで腹を立てるのは当たり前の話ですが、マトモな作家ならそんな読者に対しても公的に抗議や謝罪要求などという馬鹿げた行為はしないものです。
ここで瀬名さんがこのようなことを仰るのは、はっきり言ってご自身のすべての愛読者に対して「自分にとって不本意な読み方をした読者に対しては、厳重に抗議し謝罪を要求する」と宣言しておられるも同然です。瀬名さんの愛読者の中にも、おそらくパライブで瀬名さんがミトコンドリアを擬人化して書いたというふうに読まれた方は大勢おられるのではないかと思いますが、それで問題だと感じないから批判しないということも考えられるわけです。
勿論これはオレの推測ですから、ひょっとしたらこちらを読んでおられる愛読者の方々の大半はたまたま「瀬名さんは擬人化を注意深く避けていた」というふうに読まれたのかもしれません。しかし、問題なのは「擬人化して何が悪いの」という根拠に基づいて瀬名さんを批判しない読者が大勢存在する可能性が高いにもかかわらず、そのような読み方を非難し、攻撃しておられることです。
そのように読んだ読者と菊池さんの違いというのは、批判したか批判しなかったかという点しかありません。つまり、多くの読者が誤読していても批判に繋がらない限りその誤読を非難しようとはしないし、如何なる読者に対しても普通以上の精読の上でなければ批判を認めない、そのような批判に対しては抗議し謝罪を要求するのが作家・瀬名秀明の基本姿勢である、ということになります。
また、これは別のくだくだしい問題になりますからこの場で詳説は致しませんが、瀬名さんが当時の菊池さんを他の一般読者とは違う特別な立場と考えておられるとか、当時の掲示板における嘲笑・罵倒を公的な情報発信と視ておられるのであれば、オレはどちらも実態を無視した謬見か牽強付会であると考えます。
当時、瀬名さんが菊池さんの掲示板の書き込みを目撃して「それは違う」と思われたのであれば、妥当な対処としては公的な紙メディアにおいて「擬人化問題一般」に対応する瀬名さんの側の執筆意図を情報発表されるのが筋であって、特定個人の嘲笑・罵倒を問題にすること自体が完全に論点がズレています。
職業作家としての瀬名さんの視点において、本来最も大きな問題性というのは「自分の執筆意図とは異なる誤読が流通している」という事態であって、執筆意図を明言するというのは本来作家にとって「恥ずかしいこと」ですが、読者の批判に直接抗議するほうが遙かに「恥ずかしいこと」なので、どうせ言及するのであればという前提の話になります。誤読に対する対処として自身の意図を流通させるのは、文芸研究的な観点で一定の意味のあることですし、併せてご自身の作家的技倆の向上にフィードバックするというのが当たり前の作法だったでしょう。
問題の核心は、特定の誰それが自分のことを嘲笑・罵倒しているなどという私的な儀礼上の問題ではなかったはずです。当時の菊池さんは、瀬名さんの友達でも関係者でも部下でもなかったのであって、公人としての作家・瀬名秀明を公開情報である作品に関連して私的な場でどのように言及しようが、それは完全に読者の自由です。それとも、日本全国に存在する誤読した読者に対して、マンツーマンの反論行脚でもして廻られるおつもりだったのでしょうか。
そういう愚かで無益なことをせずとも済むように、マスメディアというものがあるのではないでしょうか。何となく今の瀬名さんは、掲示板というメディアの言説に対して紙メディアの言説で対応するのはフェアではないと思った、というような反論をされるような気がするので、念の為に先回りしておきますが、問題の本質が嘲笑・罵倒ではない以上、そこでそのようなフェアネスは必要とされません。擬人化論争的な誤読一般、その流通という状況一般が問題の核心にあるはずなのですから、本来は公開のマスメディアにおいて公的な対抗言説として発信するのが筋ということになります。
そのようにして、問題の本質を見誤ったからこそ、パライブ論争という過去の事件は当事者にとっては不毛で遺憾な私的な「喧嘩沙汰」として推移したのだし、今に至るも解消不能な感情のしこりを残しているのだとオレは考えます。
今に至るも、瀬名さんは「嘲笑・罵倒」ということを再々強調して回顧されている、このことが不審でしょうがありません。これを問題にされる限り、個人対個人の儀礼上の話や感情論にしかなりようがないんです。筋論から言えば完全に瀬名さんが間違っていますが、瀬名さんがそれほど不快に感じられるようなことが過去にあった、そのことについてご両人の間の私的な遣り取りにおいて、個人的な関係性を構築乃至修復される余地はあるでしょう。しかし、それは公開の議論や討論によってどうにかなる問題ではないはずですよ。
飽くまでそれを問題視されるからこそ、問題はいつでも喧嘩沙汰の話になる。菊池さんがパライブ論争への言及を避けておられるのは、公開の場での喧嘩沙汰の蒸し返しに意味があるとは思えないからだし、その話を掘り下げるとどうしても瀬名さんの「奇矯な読者観」が表面化せざるを得ないわけで、身も蓋もなく言ってしまえば、ご自身のブログでそういう話を我からなさるということ自体が狂気の沙汰なんですよ。
どうもその点が瀬名さんに伝わっていないという不審を覚えました。瀬名さんは、ご自身の愛読者を減らしたり、このブログが炎上してニュース種になるリスクを踏まえた上で、尚も過去の個人的で「つまらない」非礼咎めを貫きたいのですか?
投稿: 黒猫亭 | 2008年3月28日 (金) 14:52
もう一度、当然のことを確認します。作者(別に瀬名さんとは限りません)が、もしも仮に
>読者は作者の意図した通りに作品を読むべきであり、見当違いの批判や誹謗に対しては、作者には読者に抗議し謝罪を求める権利がある
【Posted by: 黒猫亭 | March 28, 2008 at 02:52 PM】
といったような考えを持っていたり、あるいは、そのように表明をしたとして、それは全くの自由ですね。もちろん、読者がそれに対して従う必要がある訳でもありません。
投稿: 室井健亮 | 2008年3月28日 (金) 17:19
黒猫亭さま
すみません、黒猫亭さんの前提や憶測が私にはまったく事実ではないと思えるので、長くお書きになったことの大半は返答しようがありません。「読者は作者の意図した通りに作品を読むべきであり、見当違いの批判や誹謗に対しては、作者には読者に抗議し謝罪を求める権利がある」というご呈示の前提は誤解であり、「そんな話はしていない」と申し上げてきたからです。身に覚えのない前提からご叱責やご忠告をいただいても、納得できません。「奇矯な読者観」なるものも私は持ち合わせていません。黒猫亭さんはどこにもいない架空の作家について語っておられるように思えます。これは私ときくちさんの見え方の差という話以前のことで、明らかな誤解です。
ジャンル性について考え方のフェーズが個々人で異なっており、それはコミュニケーション論につながるという話は述べてきました。こちらは広がりのある重要な課題だと私は考えていて、すでにこれまでの議論をもとに多くの講演・著作等で話を展開しています。ここでコメントしていることは、最初から一貫して、こちらの話です。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月28日 (金) 21:01
きくちさま
私は紙媒体におけるご批評については機会があれば紙媒体で返していました。新潮文庫版『パラサイト・イヴ』のあとがきも、紙媒体の一例です。紙媒体での返答が困難なときは直接その人にお伝えしたこともありますがごく例外です。私信をいただいたときは私信で返しました。もちろん互いに大切な議論になりうると判断した場合に限って受け答えをしており、やみくもに・あるいは特殊な事例だけに絞って議論したわけではありませんよ。とてもよい事後を読者に提供できた例もあります(清水義範氏『もっとおもしろくても理科』など)。次回以降の作品でもって応答するのはもちろんのことです。
原則的には相手と同じ媒体(たとえば掲示板なら掲示板)でやりとりをするのが筋だと思うので、そうしてきました。これは当時きくちさんから教わったことで、原則としてずっと心に留めて守ってきたことです。
という話を続けるのが不毛であることは私も承知していますのでやめます。
で、率直な話ですが、なぜ互いにとっていいことがないのかが私には読み取れません。瀬名ときくちさんの認識のどちらを選ぶなんて話はしていないでしょう。自分で全体を読み直しても、きくちさんに放置するか当時の状況を書くかの二択を迫る内容とは思えません。「お互いにこれからは」の部分はよりよいコミュニケーションを期待して書きましたが、きくちさんのジャンル性のお考えはわかりましたのでいまは伝わらないと判断し取り下げます。一方的な非難だといまも受け止められているのはとても残念です。
互いの見え方が違うとわかった上で、次にどのような希望(救い)が考えられるだろうか、という話が最初でした。こういうのを私は「境界知」と呼んで、私たち人間の大切な知能のあり方だという話を著作で展開してきました。これまでのコメントもすべて、この考え方に基づいて書いています。ここでの議論をもとに、『信じぬ者は救われる』の次の展開を皆様と考えることができればいいと私は願っていました。その点において私がアンフェアなふるまいをしたとはどうしても思えないのです。
正直なところ、そういった当初の話に戻したかったのですが、きくちさんと公開対談(あるいは座談会)のようなかたちでいつか「科学とは何か」についてお話をさせていただく機会があれば嬉しく思います。
笑いについて、こちらも端的にいうと、私は当初からコミュニケーションの話として述べているので、乱暴な意見だというご指摘はあたらないと考えています。
もちろん笑いは文芸批評とニセ科学批判の文脈それぞれで意味合いを持つはず・持つべきですね。しかしいずれの場合も当初の文脈とは離れた文脈が成立してしまうことがあり、それはどちらもコミュニケーションやコミュニティ意識の問題と密接に関わっているという、もう一歩先の話をしているのですから、決して乱暴とは思えません。文芸批評の文脈そのものとニセ科学批判の文脈そのものを同一視しているわけではありません。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月28日 (金) 21:08
上のようにコメントをしましたが、きくちさんのお気持ちを別の角度から考えたコメントを次に述べます。
上に書きましたことは議論としては成り立つと思うのですが、著者のおひとりであるきくちさんのお気持ちに十分配慮したものとは必ずしもいえません。
私自身、最初のエントリーは辛い気持ちで書いたものですし、一部の読者も辛いであろうことは理解しています。なぜいまこの読後感想文を書いたのか、というきっかけの心の動きについては直接きくちさんに会ってお話しした方がよいと思っています。といってもいままで書いてきたこととあまり変わらないのですが、ここに書くにしてもやはり声と表情でも直接伝えたほうがよかったと、反省しています。
私がここにアップロードすることを決めたのは、タイトルにある「救(われる)」という言葉に、希望を感じたからです。ブログ読者の多くもこの希望をかけらでも感じていただけるものと考えて投稿しました。むろん当方が希望について述べたとしても、きくちさんが同じように思われるとは限りません。このことも考えた上での投稿でした。
これが浅はかな決断だったというご叱責があるならば、ご意見として重く受け止めます。
今回の議論で改めてわかりましたが、コミュニケーションの考え方について、私ときくちさんでは大きな違いがございます。今回の最初のエントリーについては、もっときくちさんのお考えやお気持ちを理解した上で書かなければならなかった。また私にはそれが充分にできたはずでした。なにしろこれまでたくさん話をして、きくちさんのお考えの一端は理解していたはずでしたから。そしてできるならば読む人が辛さを思い出さなくてもすむよう記述を練り上げなくてはならなかった。
また私は注意して書いたとはいえ、SF業界をひとくくりにして語るのは確かに誤解を招きやすい記述です。
どんな場合でもこのような投稿はよくないと考えているのではなく、今回のケースでは一部の記述において私の配慮不足があったと感じているということです。混乱させたことについてお詫びしなければなりません。
このことはきくちさんをはじめ皆様に対して心から謝罪したく思います。大変申し訳ありませんでした。
(投稿失敗したため追記しました。ご了承下さい。)
投稿: 瀬名秀明 | 2008年3月28日 (金) 22:39
なかなか書きづらいので、どうしようか悩むわけですが、いちおう書きます。
謝ってもらう必要はないです。というか、結局この記事と一連のコメント群で瀬名さんが本当は何を言いたかったのか、僕にはまったくわからないままなので。僕にわからないということは、他のほぼすべての(パライブ当時のできごとを知らない)読者にはさらになにがなんだかわからなかったのではないでしょうか。
なぜ今になって、10年以上前の話を持ち出してこられたのか、またなぜそれが「ニセ科学」の文脈で語られたのか、いまだに困惑しています。もし、「菊池のやることは全部一緒だ」と考えられたのだとすれば、では「瀬名秀明のやることは全部一緒なのか」という質問で話は尽きると思います。
それから、瀬名さんがいまだに「SFの人」という括りで語られることにもひどく困惑させられました。先日の「SF大賞パーティ」では多くの「SFの人」と話されたはずなのに、その直後にああいう書き方になるのはどういうことだろうと思ったのですが。
しかしまあ、このくらいで。
「科学とは何か」については、いずれ機会があればよいかなあと思います。
投稿: きくち | 2008年3月31日 (月) 17:20
少し補足を。
作家が読者を自分の意図に乗せてやろうと企てることは普通にあっていいことだし、読者が作家の意図に乗せられまいぞとすることも普通にあっていいと思う。そこで、作家と読者の間で何かのパフォーマンスがたまたま発生したとしても別に構わないでしょう。
もしそれが貴方にとって面白くなければ、端的に参加しなければいいのです。
投稿: 室井健亮 | 2008年4月 1日 (火) 22:03
最後にきくちさんへお返事を差し上げようと考えていましたが、やはり2008.4.2に記した次の文章を再掲することでお返事とさせてください。
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追記(2008.4.2) 皆様、多くのご意見をありがとうございました。これは定型文ではなく、貴重なお言葉に心から感謝をしています。私自身、多くの発見と反省、またそれを踏まえての新しい思いがありました。あとは今後の作品や作家活動でお答えすべきことだと感じましたので、ここでコメント欄を閉じさせていただきます。(後略)
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皆様、ありがとうございました。今回はうまく伝えられず混乱を招いてしまった部分もあり、ご迷惑をおかけしました。教訓・反省点として厳に受けとめ、今後の作家活動へ活かしていきたいと思います。
投稿: 瀬名秀明 | 2008年4月13日 (日) 11:36