いま、ふたつの科学者の伝記翻訳シリーズが競うようにして出版されている。ちょうど刊行開始から少し経って、両叢書にまたがる科学者も出てきたので、この機会に読み比べてみることにした。
まず2007年2月から始まったのが、「オックスフォード 科学の肖像」(大月書店)。ハーバード大のオーウェン・ギンガリッチという天文学・科学史の教授が編集代表しており、年6冊刊行を目指している。すでに『ダーウィン』『アインシュタイン』『ガリレオ・ガリレイ』『エンリコ・フェルミ』『マリー・キュリー』『マイケル・ファラデー』が刊行済みで、さらに15冊の刊行予定も公開されている。「このシリーズはトップレベルの科学者やサイエンスライターによって書かれた、若い読者から一般向けの科学的な伝記である」とあるように、情報を絞り込み、ごく薄くまとまっていることが特徴。執筆陣はどちらかというといまのところ科学史や専門家筋の学者が多い。カバーイラストは小笠原あり、装丁は林修三。シリーズ一覧はこちら、本家のウェブサイト(といってもUS版)はこちら。
一方、2007年5月から邦訳が始まったのが「グレート・ディスカバリーズ」(WAVE出版)で、現時点で『マリー・キュリー』『アインシュタイン』『リーヴィット』の3冊を刊行(もうすぐ『アラン・チューリング』が出る)。筆の立つサイエンスライターを揃えているという印象で、邦訳版では日本人研究者による解説も巻末に賦されている。やはりこちらも情報を絞り込んで、ごく薄くまとめている。装丁はマツダオフィス。本家のウェブサイトは存在しないようで、実はこれ、評伝のシリーズではなく人文社会も含めた科学一般のシリーズのようだ。とりあえず原書の紹介ページはこちら。
さて、両者による『マリー・キュリー』対決の結果は? これは私が読む限り、「グレート・ディスカバリー」の圧勝。陰鬱なマリーの肖像画をカバージャケットにあしらっていることからもわかるように、こちらの著者はマリーがひんぱんに鬱を発症したことを包み隠さず示していて、それが逆に現代的なマリー像を伝えてくれる。気むずかしくてかわいげはないが、しかし学問への追究心は強いマリー。夫ピエールが事故死した後は常に黒服を着ていたが、年下の男性への愛情を育み、白い服で胸に薔薇を挿すまでになる。しかしその恋愛沙汰がマスメディアで報道され、二度目のノーベル賞授賞も彼女の鬱を治してはくれない。そういったひとつひとつの描写の積み重ねによって、それでも尊敬できる一個人としてのマリー・キュリー像を浮かび上がらせる。科学者の伝記ではあるが、むしろ文芸小説をゆったりと読むような、読書に心の喜びを見出す真の大人にこそ読まれるべき本だろう。一冊の本として私たちの胸を打つのだ。
「オックスフォード」版のほうも、悪くはない。概ね同じことが書かれているし、マリーの恋愛スキャンダルについても記されているし、むしろ晩年についてはこちらのほうが整理されているかもしれない。マリーの生涯を短時間で知りたいという読者の欲求に充分応えている。写真も多い。
しかし何といえばいいのかな、執筆者の文章力が歴然として違う。実は「グレート」版の『キュリー』は他の刊行書より束が厚い。それだけ描写が多いわけだが、それでも読後の充実感はやはり作家の力量に因るところが大きいと思う。
『アインシュタイン』も両叢書から出ている。その感想はまた別途。
とりあえず、今後も両叢書はすべて揃えて、順次読んでゆくつもり。