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August 13, 2007

民俗誌を織る旅

それまで読んだことのなかった作家の本に向かおうとするとき、その人の代表作や力作と呼ばれるものにはどうも手が伸びにくい。多くの場合、私はまずエッセイ集や対談集などから入ってみる。当人もさほど力をこめていない、むしろ書き散らかしたような文章を無心で読んでゆくことで、その人の呼吸が伝わってくる。つまりそれは、その人の声を聞くようなものか。むろん実際に声を聞いてしまうと読み方がかわってしまうものだが、エッセイの場合は結局のところ読み手が勝手に創り上げた声なのだから差しつかえない。つまり相手のリラックスした文章を読むことで、こちらをリラックスさせるのである。この時点で気分が乗らなければ物別れとなる。
そういうわけで、赤坂憲雄をこれから読み進めたいと思い、ウェブ書店で彼の著書をあらかた購入し、さてどれから始めようか(実は『異人論序説』はすでに読んでいる)、となって、まずはオビに初エッセイ集とあった本書を開いた。

特に前半の、民俗学における聞き書きについて述べた部分や、東北芸術工大学に移り『東北学』などの雑誌を立ち上げてゆく辺りに惹きつけられた。私は民俗学の聞き書きについて、これまで誤ったイメージを持っていたような気がする。「人は民俗学者になるとき、避けがたく空虚な言葉の群れとの訣別を強いられる」「聞き書きとは何か、と問うことは、民俗学の無意識を揺さぶることである」といった発言に接し、そうかと思った。実は私はこれまで『仙台学』を読んで、巻を追うごとにつまらなくなってゆくような気がして、自分の感覚が民俗学と相容れないためかと思っていた。しかしひょっとして赤坂さん、あなたが雇っている編集者たちは、単に民俗学のまねごとをしているだけ、単に聞いて書くというその行為を自動化しているだけではありませんか、と尋ねたくなった。本当の民俗学が為し得るおもしろさは、もうあなたの『仙台学』にはほとんどないのではありませんかと。

「いかなる記録の手法がありうるのか。聞き書き、ルポルタージュ、自分史、民俗誌……。その手法は多様であっていい。それぞれの現場にあって、創意工夫が凝らされていていい。そこに生きてある人々の声に、ただ謙虚に耳を傾けることだけを、ひそかなる仁義と心得ておくことにしよう。それぞれの現場から、記憶の海の底深くへと、いくつもの記録の垂鉛を降ろさねばならない」

なんだ、ここにすでにマニフェストが書かれているではないか。いま東北の編集の現場に、ここで宣言された「創意工夫」や「謙虚」さや「仁義」はありますか、と窓から見える真夏の空に問いたくなる。

ロボットの民俗学が必要だろう。科学の民俗学も必要だろう。民俗学をやっている人は、農村に入り込み、農家の老人の話を聞くかもしれない。しかし彼らは科学の現場に入り込み、そこに生きる人たちの話を謙虚に聞き、聞き書きをすることはほとんどない。また、仮に私のような人間が彼らを科学の現場へ連れてきたとしても、科学の世界を民俗として見てもらえることはまずない。かしこまり、縮こまって、科学者をタブーの領域に押しやるだけだ。
ひとつひとつのロボットの声を聞き書きする人が必要だろう。たぶん、ごくわずかなジャーナリストだけが、そういった仕事を(民俗学のことなど知らずに)続けている。
そして逆に、民俗学の中へ科学者や技術者は入り込んで行けるだろうか。たぶん民俗学が科学に入ってゆくのは、あと数十年でできるだろう。だが逆は難しいだろう。なぜ難しいのかを考えることは大切であるような気がする。

さて、『異人論序説』がこの著者にとって、むしろ青春の産物であったということがわかったのが、少し嬉しかった。「遅すぎた卒論」「研究書の類とは、まるで無縁の場所で紡がれた、自己を癒しに導くためのモノローグにも似た物語の書」という記述を読んで、自分自身のある本を思い浮かべた。それはまさにそのような本となったが、『異人論序説』とはまったく違って、何の評判にもならなかった。才能と青春の経験の差というものだろう。

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