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自由は進化する

ようやく読了。長い。だが拙作『デカルトの密室』のテーマと強く呼応していることに驚いた。書き終える前に読んでいたら、完璧に引きずられていたかもしれない。以下は書評の下書き、備忘録。
翻訳は山形浩生。この訳者は(小説だとふつうなのに)なぜかノンフィクションだとタメ口で訳すクセがあり、読み始めてしばらくはひどく違和感があった。だがだんだん慣れてきた。
私はデネットの意見と方向性に賛同する。巻末の訳者解説は力作だと思うが、はっきりいって重要なポイントを外していると思う。何を外しているのか、ここで述べよう。まずデネットは、「自由」というものを大きくふたつの段階に分けている。生命体としての自由、つまり鳥がどこへでも飛んでいける自由と、人間の自由、私たちが「自由意志」と呼んでいるものだ。生命体としての自由から人間の自由への進化、それは道徳・倫理の進化なのだ、という話をデネットはしているのである。鳥は確かに自由に空を飛べるかもしれない、だが鳥にはわたしたち人間が持つような社会道徳は存在しないから、人間と同じ意味での自由は存在しない。その違いが自由の進化なんだ、というのが本書のキモなのである。だが訳者はデネットの道徳論をあまり重視していなくて、だから巻末の解説も的はずれな議論になってしまっている。山形浩生は「自由」というものについてかなり興味を持っているはずだし、デネットの議論の本質がわからないはずはないのだが、どうも今回ばかりは外しているように思える。なぜなのかわからない。
本書の中で重要だと思う点を記しておく。まずは視点問題だ。人間は「神(俯瞰)の視点」と「人間(地べた)の視点」(行為者=エージェント視点)を行ったり来たりできる。この視点間の移動は訓練しないと制御できないが、それでもできることが重要なのだ。このことが、「決定論は不可避性を意味しない」という本書の前半の指摘につながってくる。神の視点である状態が決定論的であったとしても、人間の視点では不可避ではない、つまり決定論と不可避性はイコールではない、という話だ。決定論と可避性は共存できる! 次に重要なのは、時間の流れだ。ライフゲームはある状態から次の状態を一義的に決める。だがある状態のひとつ前を決めることはできない。複数の可能性が存在する。これは「あのときこうしていたら」という議論に繋がってくる。神の視点なら未来と過去を一緒に並べて見ることができるが、エージェント視点ではそれができないのだ。エージェントは変化を感じるのみである。これらの議論から導かれるのは、「決定論が真なら人間は自由意志を持たない」という考えは誤りだということだ。
自由意志問題で近年衝撃的だったのは、リベットによる研究だ。人間がなにかをしようと決めるとき、実はその300ミリ秒前に脳の活動が始まっている、という実験結果である。これが正しいとしたら、人間の自由意志なんて幻想で、神経活動の働きをただ受け入れているに過ぎないということになる。だがデネットはこの考え方に異を唱える。なぜ自由意志を発動する瞬間が存在すると思わなければならないのか。単に意識的な意思決定には時間が掛かるということではないか。自由意志というものは他の精神の力と同じく時間の幅を持っているものなのだ。意思決定の作業とは脳内で時間的にも空間的にも広がりを持って分布しているものなのだ。
我々はデカルト劇場から抜け出せないのか? デネットは、この密室状態を考えること自体がおかしいと指摘する。私たちは密室そのものなのだ。
そして人間の自由意志だ。私たち人間の自由意志は、私たちが道徳的エージェントであることと重大な関係がある。「幻影であろうとなかろうと、意識的な意志はその人自身の行動に関する道徳的責任のガイドなのだ」というウェグナーの言葉をデネットは引用する。「視点」の獲得は人間に「責任」を与える。「言語が人間の脳にインストールされるとそれが新しい知覚アーキテクチャを作り、それが新種の意識、そして道徳性、を作り出す」。人は責任を負いたいと思っている。自由社会において、立派な市民と見なされたいと私たちは思う。そのほうが利益があるからだ。そして私たちの自由意志はその方向に作用する。もちろん自分がよいと思うように行動するためには責任が伴う。その責任を受け入れることが人間の自由意志だとデネットは結論づけているのだ。倫理学では、「すべきである」は「できる」を含意する、という命題がある。ここにこそ自由意志と責任との根本的な繋がりがある。道徳的に重要性を持つ「できる」の意味合いは、非決定論に依存するような「できる」の意味合いとはまったく違う。ここが人間以外の生命体の「自由」と人間の「自由」の違いなのだ。私たち人間に自由ははっきりと存在する。だが今後も道徳は変化してゆくだろうから、それと歩調を合わせるように自由も進化してゆくだろう。これがデネットの結論だ。
デネットは道徳論・倫理学を脳科学・進化学と結びつけようとしているのである。その道筋こそが今後の科学の主題だと宣言しているのである。残念ながら本書では重要な道徳論がいまいち深く議論されていない。私が本当に読みたかったのはそこだ。しかしデネットは本書ではっきりと21世紀科学の筋道を示しており、私はその道しるべがかなり正しい方向を指していると感じている。ここから先の議論は、倫理学者と脳科学者・進化学者・ロボット学者が共同でおこなうべきものだ。
私がやろうとしているのは、上記のような議論を小説で進めることなのである。
★★★★ 2005.6.12 04:59 【mixiおすすめレビューより転載】
追記:山形浩生氏を批判する目的の文章ではないのでご理解いただければ幸いである。上記文章を書いた後、何度か読み返し、要点を押さえた解説であると思った。ただしデネットの本文をよく読み込まないと、解説の意図するところはわかりにくいような気もする。
さらに追記:訳者の山形浩生氏がコメントして下さっていた。ありがとうございます、と素直に感謝するとかえって嫌がられるだろうか。でも、うーん、そうかな、「読みが浅い」ということはあるかもしれないけれど、「間違っている」とは思わないなあ。社会道徳の自由を「進化の過程で獲得された自由の延長としてとらえる」というポイントは、私も理解しているつもりだったのだけれど。
山形氏のコメントの後半は、いつの間にかデネットの見方ではなくて、「ぼく(山形氏)の見方」になってしまっているみたい。そのあたりの区別をうまく訳者解説から読み取れなかったのが、上に掲載した感想文の至らなかったところだったと思う。また上掲の感想文では、ふたつの段階に分けている、と書いたことで、段階があるということよりも前後で差があるという話を必要以上に強調しすぎてしまったのかもしれない。また私自身、当時は「社会的知能」に興味があったので、そちらに目を奪われすぎていたかもしれない。いずれにしろ、デネットの本は今後も読み返す機会が多いと思うので、考えてみたい。
「批判する目的の文章ではない」と書いたのは、「山形浩生について語っている」ことについて、何か過剰に反応されることを避けたかったからです。確かに逃げ口上のように読めますね。この点については反省します。
上記感想文は、改稿して「中央公論」に書評として掲載された。(2006.5.8)
もうひとつ追記:山形氏のコメントが、「もとい読み込みが足りないと思う」と変更されていました。はい、そういうお話であれば納得です。訳者解説の意図を明快にご説明いただいて嬉しく思いました。ありがとうございます。
#上の追記を示したら、ある場所でヘタレだと書かれてしまっていました。ふう。昔書いた自分の文章に至らなかった点を認めること、相手の見解を理解することがヘタレだとは思わないですね。ただ、もし私の追記によって、山形氏自身もそのように私を見ているとしたらさすがに落ち込むので、そうでないことを願います。もっと山形浩生氏の著書や訳書の感想を、ふつうに、軽やかに語れるようになりたいと思った次第です。たぶんそれは瀬名秀明という名前を捨てない限り、もう不可能なのでしょう。(2006.5.10)

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