ぼくの家は「世界遺産」 [地球のカタチ]
→「朝日中学生ウイークリー」2008.5.18号 連載第26回
友達もいない16歳の孤児ギルバート・チェスタトンは、世紀末のロンドンでつまらない丁稚奉公に明け暮れる毎日。ところがある夜、奇妙な光が空に満ち、巨大な彗星が町外れに墜ちた。ギルバートは新聞社に雇われて、この奇怪な現象を解明するため奔走を始める。こいつは無害な自然現象なのか、それとも人類がはじめて体験するエイリアンの襲撃なのか?
ギルバートは3人の男と出会い、この謎に立ち向かうのだ!
ひとりはライバル新聞社のジャーナリスト、ハーブ・ウェルズ!
ふたりめは髭を生やした人なつっこいドクター! きっと彼は異星からの来訪者について知っている……。
そして3人目はブラウン神父!
えーと、まだ読んでません。
16歳のチェスタトンに萌える人がこの世の中にいるのでしょうか。しかもこれ、ヤング・チェスタトン・クロニクルの第一弾だそうで、シリーズ化されるんですか?
いちおうカトリック系の出版社から出ています。
ここまでめちゃくちゃだと、ネタ本として手元に持っているだけで満足してしまうぞ(笑)。
やっぱり時代はインディ・ジョーンズじゃなくてチェスタトンですよ!
京大の山中伸弥教授らがつくったiPS細胞(人工多能性幹細胞)について一般向けに概説する本が相次いで出版されているので、まとめて読んでみた。
まず田中幹人編著のほうがタッチの差で先に刊行されている。数名のチームで取材・執筆したようだ。早稲田の科学技術ジャーナリスト養成プログラム出身者が編集に関わっている。山中教授だけでなくそこの教員や学生たちにも取材し、彼らの言葉を入手した上で書籍全体を構成している。前半はどうやってiPS細胞ができたのかを山中教授の思考経過に基づいて詳細に解説。後半で今後の再生医療にどのような展望が開けるのか、また倫理的・政治的な問題点は何かを述べる。ジャーナリスティックな文体だが、押さえるべきところは押さえていると思う。アメリカの資本力に対して、日本はお役所仕事でES細胞の話を援用した規制も厳しすぎる、オールジャパン体制で行け、と煽るが、一方ではまだiPS細胞は再生医療に何も貢献できていないことをきちんと示し、患者さんも正しく知り、ともに勉強していかなければならない、と締めくくっているのは好感が持てる。
もうひとつ、私がポイントを置きたいのは、iPS細胞に関して生命倫理の話がどこまで書かれているかである。ES細胞は倫理的な問題があったけれどiPS細胞なら大丈夫、とローマ法王庁やブッシュからお墨つきをもらって一色歓迎ムードのiPS細胞だが、本当にそうなのか、という視点は大切である。本書では、iPS細胞が倫理面をクリアしたといわれているのは、キリスト教を基盤とした社会前提なのだから、そこを考えてみるべきだ、と述べている。ES細胞は胚からつくられるが、この胚の時点からが人だという考えはキリスト教のものだというわけ。では、今後技術が進めば、iPS細胞からも胚そのものをつくれるかもしれない。その場合、ならばiPS細胞も人なのか。そういう問題が残るとしている。またiPS細胞による再生医療はたぶん金がかかるから、格差拡大が進むとも懸念する。
もうちょっと笑顔で未来のノーベル賞候補者の成功に共感したいという人は後者を読むほうがいいだろう。ニュースで騒がれているiPS細胞についてちょっと知りたい。あまり難しい背景や研究の歴史は不要。山中先生すてき! と思いたい、という(おそらく多くの)読者は、こちらで充分だと思う。ものすごく活字も大きく、正直言ってかなり拙速につくられた本だと思うが、対談の聞き手役である畑中正一先生が(失礼ながらびっくりするほど)きちんと山中教授から話を聞き出していて、それなりに読める本に仕上がっている。注釈なども畑中先生がしっかり手を入れている。これはもう畑中先生の貢献で成り立っている本でしょう。ポイントをおさえながら、夢のある話も広げていて、1100円でふたりの公開対談を聴きに行ったと考えたら安い方ではないでしょうか。現実的にどういうふうにiPS細胞が利用されてゆくのかといったビジョンも明快に畑中先生が語っています。
ただしいくらかライフサイエンスを囓った人だと、このふたつの本は物足りないと思う。
もうちょっと最新の情報も知りたいという人は、「日経サイエンス」2008年7月号に要領よくまとまった記事が載っているので、そちらを読むといいと思った。
数年前から科学技術インタープリターの養成講座がいくつかの大学で開催されたけれど、社会が求めている科学本の一部はやっぱりこういうものだなあ、と感じた。
本当は、1年後にもっと詳しい決定版の本が出てほしい。海外ならそういう本が必ず出る。科学技術インタープリターの養成講座は、とりあえずこうして素早く、それなりに正確な本を出せる人材、あるいはそういったプロジェクトに協力できる人材は育てた。あとは本当に後世まで残る本を書ける人材を育てることができたのか、ということになると思う。そういう本、出てほしいなあ。
私がやはり読みたい本は、ES細胞からiPS細胞への流れをきちんと書いてある本だ。そして、iPS細胞の生命倫理問題を、それなりに瞠目させ、納得させる筆致で書いた本だ。またさらに欲をいうなら、いま渦中にいる研究者たちでさえ想像できない10年後、20年後、50年後の再生医療の未来を、説得力あるビジョンで書いた本だ。
実は私自身、山中教授がマウスでiPS細胞をつくって発表したとき、ある雑誌から「これを題材に未来を語ってほしい」という打診を受けた。しかし物事が大きく動いている最中で未来を考えることは本当に難しいのだなとそのとき痛感したのである。研究コミュニティ内部では描けないビジョンを描くやり方はきっとあるはずなのだが、私自身その方法をうまく見出せていない。これからの課題である。
その意味で今回紹介した前者の本が、航空機の発展にiPS細胞を準えているのは、うーむと思いながら違和感もあった。ES細胞はリリエンタールの時代、iPS細胞はライト兄弟、という比喩は、ハズしていると思うからだ。「日経サイエンス」の記事は「望む! 予想外の進展」という希望でしめくくっているが、こちらのほうが私の感覚にはフィットする。
たぶんiPS細胞の未来を語るときは、もう一段階、二段階くらいの跳躍を含んで話さなければならないのだろう。その跳躍をどのように語るかが、語り手としてのセンスなのだろう。
サン=テグジュペリの知人だった飛行士ジャン・メルモーズの伝記。著者ジョゼフ・ケッセルは映画『昼顔』の原作者で、生前は大ベストセラー作家だったようだ。(いまはほとんど忘れ去られている?)
「空に生き 空に殉じた 〈フランスのリンドバーグ〉の生涯 『夜間飛行』『人間の大地』などサン=テグジュペリの数多くの名作のモデルとなった「フランスで最も有名な男」の飛行機に賭けたロマンあふれる生涯を、僚友の大作家が愛惜をこめて描く」
と帯にある。さすが小説家の作品だけあって内容はドラマチック、けっこう感動的です。
しかしこのメルモーズ、空の英雄となった後年には極右団体「火の十字架団」のメンバーとして活動、当時はお札になってほしい人ナンバーワンとまで崇められていたのに、死後は人気が急落し、サン=テグジュペリがお札になった。そういったことは本書にはまったく触れられていない。山﨑庸一郎は『『星の王子さま』のひと』(新潮文庫)の中で、本書のメルモーズはまるで半神のように描かれていると率直に評している。
ただ、ケッセル自身も飛行士なので、メルモーズの飛んだルートを後年になって自分で飛んだり、船で航跡を辿ったりして、なるべくメルモーズが感じたであろう自然の情景を書き込んでいるところは好感が持てるし、描写もいい。ケッセルにはいくつか飛行機小説があるみたいなので、それらはぜひ読んでみたいと思った。
素晴らしい小説だ。今年の「このミス」でベスト3くらいに入ると思うが、そんなランキングなどどうでもいい。私にとってここ数年間でもっとも大切にしたいと思った小説であった。リチャード・プライス、なぜこの作家をこれまで読んでいなかったのか。急いで邦訳書籍すべてを揃えた。しかしこの著者は数年に一冊、長篇を著すのだから、こちらもそのペースで読めばよい。一生かけてこの著者の本を読み続ければよいのだ。
ハリウッドでテレビ脚本家としてそこそこ成功した主人公レイが、故郷の貧しい街に帰ってきて高校でボランティアの講師を始める。彼は虚飾を捨てて故郷に戻り、そこで善意を為して余生を過ごそうと考えていたのだ。彼は創作講座を担当し、才能の片鱗を見せる生徒にも出会う。しかしあるとき、彼は自宅で何者かに頭部を強打され、重傷を負う。一命は取り留めたが、レイは誰に殴られたのか語ろうとしない。その事件を探ることになったのは、レイの幼なじみであった女性警官ネリーズである。
この物語は、レイが殴られるまでの1カ月と、殴られてからの1カ月が交互に少しずつ語られてゆく。2000年代の分厚いベストセラー小説によくあった手法である。一時期のクーンツもこうやって無闇にストーリーを複雑化して枚数を稼いでいた。だから最初のうちはまたその手かと思ったし、時制の切り替えのタイミングがよくわからず混乱もした。しかし各章のタイトルを見て、そこに書かれている名前がその章の中心人物であり、1月が殴られる前まで、2月が殴られた後の話だとわかり、全体の構造がわかってきてからは物語に惹き込まれた。特に第一部の終盤、レイがダニエルという女性と愛し合うシーンに差し掛かる当たりからだ。
この小説の中で、多くの人が誰かに物語を語る。第二部でレイがかつて自分の書いた安手の青春テレビドラマの話をするシーンがある。あまりにベタなつくりの、視聴率優先主義のストーリーだ。しかし私はこの部分で、この分厚い長篇を読んでいて初めて涙を流して泣いてしまった。リチャード・プライスはなんと優れた作家なのか。この長篇では他に涙を流して泣けるところは一切ない。しかし読者である私は、この長い長篇の中でただ一度だけ、自動的にツボを突くこの安手のドラマのシーンで涙を流したのである。人間はそれほどまでに自動的な機械なのだ。
それでもリチャード・プライスは、その自動人形である私たちに、本当のエンターテインメントを贈り届ける。このあと本作では何度も胸に迫るようなシーンが現れる。たとえば332ページ。466ページ。501ページ。私はそれらのシーンでは泣けないのである。自動の涙は流せないのである。涙は流せないのに、本当の感動がそこにあるのだ。
そしてさらにその後、心に沁みるシーンがいくつかある。事件の真相が提示された後、私たち読者は再びレイの創作講座を訪れ、生徒たちの書いた拙い小説の朗読を、レイとともに聞くのだ。そしてレイは自分の娘に、ある個人的な話を物語る。そこでの娘の一言に行き着くまで、本書は528ページもかけている。
私たち全員が何かを物語れるわけではない。だがある一部の人は、誰かにものを語って聞かせる天賦の才を得て生まれるのだろう。それはとても素晴らしいことではないか。そして、その才を持つ者から物語を聞くこと、それは何と素晴らしいことであるのか。それは互いにとって何と幸せなことなのか。本書はそのことをまっすぐに伝えてくる。最後の1行は、あまりにも小説としては直裁的な記述である。作家ならこのようには書かず、別の描写で読者を感動させることだってできるはずだ。それでもリチャード・プライスはこのように本書を締めくくった。これでいいのだと私は思う。
なお原題は「Samaritan」、つまりサマリア人のことである。
読み進めてゆくうちに何度も、ちょっとしたシーンに自分の過去の記憶が揺さぶられるような感覚をおぼえた。つまりそれは著者の描写が見事な観察力に裏づけられているからだ。私がいちばん好きなのは、終盤の513ページ、皆でこれから自作小説の朗読をしようとするとき、娘のネリーがわけもなく恥ずかしがるシーンだ。本当に何気ない場面なのだが、私はここで登場人物とともに自分が生きているように感じたのだった。
こんな小説があるのだから、生きていて本当によかったと思う。もう少しエンターテインメントを読み続けていたい。そのためにもう少し生きていたい。そして自分でも物語を書き続けていきたい。心からそう思えた小説であった。
→朝日新聞2008.5.25「発掘から命名まで 38年のロマンが」
「日本に化石ブームを起こし、映画『ドラえもん のび太の恐竜』のピー助としても知られるフタバスズキリュウ 発掘から骨格の復元、種の同定までの軌跡」
と帯にあるのに、書評で述べたとおり、本文中では一回も『のび太の恐竜』へ言及はない。ドラえもんのおかげで日本では知らない子どもがいないフタバスズキリュウだが、これまではほとんど関連本がなかったので、これがようやく出た決定版解説書といえる。
『のび太の恐竜』への言及がないのは、書評でも述べておいたとおり、実際の研究結果が炙り出したフタバスズキリュウの生態が、藤子・F・不二雄先生の描いたピー助とはまったく違うものだから。
まずフタバスズキリュウは胎生の可能性が高く、卵では生まれていなかったかもしれない。だからのび太が卵を発見することはなさそうだ。またフタバスズキリュウは陸に上がれなかった可能性が高い。のび太の部屋で遊んだり、ましてや白亜紀のアメリカ大陸を横断したりなんてことは無理だろう。そもそも首長竜は恐竜のグループでさえない。つまり『のび太の恐竜』は、タイトルから何から完璧に間違っているというわけ。
それでも『のび太の恐竜』は傑作であり、多くの子供たちに恐竜へのロマンを与え、科学の発展に寄与した。藤子・F先生はむしろ『のび太の恐竜』をドラえもん版『野生のエルザ』として描いた。
現在刊行されている多くの小説は、読者に呼吸を合わせる体裁を採っていると思う。読者が読んで心地よいように、読者の呼吸に合わせて作家が文章を書いている。
なぜいまシムノンが読まれなくなったのか。たぶんそれは、シムノンの小説が、読者ではなくシムノンの呼吸によって書かれているからだと思う。つまり読者の方がシムノンの呼吸に合わせなければならない。これはいまの時代、とても奇特なことであり、読者を慮っていないとして拒絶されがちなスタイルなのだと思う。しかしかつての多くの本は、読者の方が作者に呼吸を合わせていたのではなかったか?
というわけで本書もいつも通りのシムノン。シムノンは1日1章書き、8章くらいで長篇1本を終えるというスタイルを貫いた。読み進めることで、私自身がシムノンという作家の日常生活に重ね合わさってゆく、そんな感覚。でもこういう読書体験が、年をとると好きになる。30歳を過ぎたらシムノンを読もう、とはよくいわれることだが、それってつまり、30歳を過ぎたら人は他人の呼吸に自分を合わせることで歓びを見出せるようになるのだ、といっているのだと思う。
いま「シムノン邦訳全作品を読もう」キャンペーンをひとりで実施中なのである。いくつか超レア作品があるのが困りもの。でも最近『死んだギャレ氏』を見つけてしまったので、なんとなくコンプリートできそうな雰囲気になってしまった。あとは『自由酒場』と『オランダの悲劇』くらいか?
朝日新聞の書評は奥付から2カ月を過ぎたものは原則として取り上げることができない。ちょっと油断するとすぐに2カ月経ってしまうし、後で読んでおもしろかったなあと思っても無理。しかも少ないスペースに20人近い書評委員で書くものだから、順番が回ってこないと結局紙面に取り上げることができなかった、ということもままある……てなことがだんだんわかってきた。
なので面白いと思ったけれど書評できなかった本は、こっちで言及していきたい。
本書はイラストと文章が混じり合った、ちょっと不思議な体裁の本。昔もこんなのがあったような気がする。イラストになっているのはむしろ物語上のタメの部分で、なんというか、パラパラマンガの技法というか、手塚治虫の『新宝島』の冒頭部分を読むのに近い感じ?
映画初期の時代を担ったあのメリエス自作の機械人形を巡る、少年少女の冒険物語……と書くとネタばらしになってしまうのだけれど、そういうキーワードに反応する人が読んでこそおもしろい本。文章はさほどうまいとは思わないが、ストーリーはけっこうおもしろくて、腕の立つ監督によって映画化されたらきっといい作品になるだろうと思わせる。
分厚いですがさくっと読めます。
→朝日新聞2008.5.4「どこまでも大まじめにばかばかしく」
80年代ホラー映画『クリッター』なんかが大好きな人にはたまらないはずのおバカ超絶ホラー。カバーイラストもかわいい。
同じ作者の書評は一年以上空けるという不文律があるのだが、『オッド・トーマス』がいつまで経っても邦訳される気配がないので、しびれを切らした。
ところで、クーンツのテーマが「愛は勝つ」であるといったのは尾之上浩司さんだったと思う。そこに私がつけ加えて、クーンツの2大テーマは「愛は勝つ」「人生には目的がある」であると指摘、日本ではこの説が流布して、本書の風間賢二さんの訳者あとがきでも言及されている。
ただそればかりでは書評にならないので、新しいキーワードを今回はじめて提示してみた。
これでミステリー、SF、科学、ホラーと、ひととおり関心範囲の書評をお披露目したことになる。
本当は純文系の作品もやりたいのだけれど、なかなか競り落とせません。