May 06, 2008

チックタック

→朝日新聞2008.5.4「どこまでも大まじめにばかばかしく

80年代ホラー映画『クリッター』なんかが大好きな人にはたまらないはずのおバカ超絶ホラー。カバーイラストもかわいい。
同じ作者の書評は一年以上空けるという不文律があるのだが、『オッド・トーマス』がいつまで経っても邦訳される気配がないので、しびれを切らした。

ところで、クーンツのテーマが「愛は勝つ」であるといったのは尾之上浩司さんだったと思う。そこに私がつけ加えて、クーンツの2大テーマは「愛は勝つ」「人生には目的がある」であると指摘、日本ではこの説が流布して、本書の風間賢二さんの訳者あとがきでも言及されている。
ただそればかりでは書評にならないので、新しいキーワードを今回はじめて提示してみた。

これでミステリー、SF、科学、ホラーと、ひととおり関心範囲の書評をお披露目したことになる。
本当は純文系の作品もやりたいのだけれど、なかなか競り落とせません。

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April 30, 2008

キュリアス・マインド

「朝日中学生ウイークリー」2008.4.20号 連載第25回

連載3年目に突入しました。
小学生向けや高校生向けの科学本ならたくさんあるのだけれど、中学生向けの科学本って意外と少ない。なのでいつも本の選択には頭を使います。
学校の司書さんから応援のメッセージをいただいたときは嬉しかったですね。
これからもどうぞよろしく。

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アゲハ蝶の白地図

「朝日中学生ウイークリー」2008.3.16号 連載第24回

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一年中わくわくしてた

「朝日中学生ウイークリー」2008.2.17号 連載第23回

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April 23, 2008

恐竜はなぜ鳥に進化したのか―絶滅も進化も酸素濃度が決めた

→朝日新聞2008.4.20「薄い酸素濃度の中、生き延びようと

おもしろい仮説だがやや拙速な印象の書籍なので、ニック・レーン『ミトコンドリアが進化を決めた』との併読をお薦めする書評とした。

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April 15, 2008

小松左京自伝―実存を求めて

→朝日新聞2008.4.13「文学を広げ、縦横にパワーを発揮

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April 13, 2008

完全恋愛

→朝日新聞2008.4.6「恋愛の痛みと推理の歓びがピタリと

4月より朝日新聞の書評委員になりました。毎週ではありませんが日曜日に掲載され、2日後の火曜日にアサヒ・コムでも掲載されるようです。随時リンクしておきます。
仙台のジュンク堂LOFT店でも書評に取り上げた本を扱っていただけることになりました。ぜひ「瀬名秀明書店」の棚を覗いてみてください。

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March 15, 2008

信じぬ者は救われる

2刷を謹呈していただいたので読んでみました。香山さんはいつも私の事務所宛に送って下さるのに、今回は自宅宛。ということはいつもと違う謹呈リストで送られてきたのでしょう。
率直に、かつだらだらと感想と述べます。

みっともない発言を活字にしたり、ウェブに載せたりするのはもうやめよう、と読みながら思った。世の中いろいろ愚痴をいいたいことはあるだろうし、自分のことを弁解したくなるけれど、それを読むのはおもしろくないよね。だから今回限りでやめようと思う。
香山リカと菊池誠の対談集。香山さんはこのところ月刊ペースで新書等を量産しています。おもしろい本もあれば、明らかにやっつけ仕事のものもある。菊池さんは「kikulog」というウェブサイトでの活動により、ニセ科学批判の代表者として世間から認識されている。彼の活動に注目した記者らが、昨年くらいに相次いで記事に取り上げたので、ちょっとしたニセ科学批判ブームになったことは記憶に新しい。本人はカフェ・サイファイティークの一員であり、サイバーパンクやディック、ラッカーなどのドラッグ系SFのファンだと思われます。

対談集としては構成もだらだらしていて程度が低いです。飲み屋か、せいぜい半分内輪のトークイベントでやってほしい会話。編集者がもっと介入して、いい本に仕上げる努力をすべきだったと思う。岩波ブックレットみたいにすればよかったのに、ほとんど最初から最後までふたりの愚痴と迷いです。「江原啓之さんをウソ発見器にかけてみたい!」というオビもかなりひどい。「精神科医と物理学者の超刺激対談」という煽りも、肩書きに依存して権威づけしているわけで、改善の余地はあるでしょう。もっともご本人たちは「編集者が勝手につけたんだ、本文で弁解している」というかもしれませんが、世間はオビだって著者の責任範囲だと思うものですよ。
#ただし挟み込まれている出版案内の書影には、違うオビがついている。「ニセ科学やスピリチュアルにハマる人は政治にもだまされる」……初刷と2刷でオビが変更されたのか、マーケティングを考慮してぎりぎりの判断でオビが変更された可能性もある。むろんそれも著者が背負うことになる責任のひとつだと思う。

おふたりのいっていることの基本は、私も同意しますし、迷いにもある程度の共感を覚えます。しかし読んでいて首を傾げたくなってくるのは、おふたりの言動にぶれがあるからで、そして何を目的とした(どこへ向かおうとした)対談なのか最後まで分からないからでしょう。カバージャケットのおふたりはさわやかな笑顔ですが、こんな読後感は得られません。

菊池さんに対しては、複雑な気持ちがありますね。私が『パラサイト・イヴ』でデビューしたころ、菊池さんは仲間たちとウェブ掲示板の書き込みをしていて、そこで私を嘲笑していました。あの掲示板はミトコンドリアを擬人化している、という批判の代表格だったのではないかな。『パラサイト・イヴ』が映画化されることが決まったときは、「ミトコンドリアはかぶり物でやるのか」と嘲笑し合っていましたね(この発言自体は菊池さんのものではありません)。
だから私は、菊池さんがニセ科学批判における笑いの効用を説いても、容易に信用することはできません。ニセ科学には笑いを浴びせよう、それが最大の批判効果をもたらす、という主張は、ときに怖ろしい凶器となることを知っているからです。相手を見くだすことで、自分を安全な高みに置き、自分を優位に立たせる、そのために嘲笑う。私はデビューして13年の間で、この習慣がSF業界に驚くほど浸透していることを知りました。菊池さんの中にもそういう感覚がいくらか残っていると私は感じます。おおむね彼らが嘲笑する相手は、反論してこない絶対権力でした。だからこそ安心して嘲笑できたわけです。95年当時、私はそういう絶対権力者と見なされていたのかもしれません(実際、平然とそういうことをいってくるSF作家がいましたね)。しかし私は反論したので、彼らは面食らったのだろうと思います。だからニセ科学批判の手段として、相手を笑うということには、私は真っ向から異を唱えたいと思います。あなたがもし、あるとき突然、人から誤解のもとに嘲笑されたらどうしますか? その心の痛手は、本当に大きいものです。だからどんなときでも人を嘲笑してはいけない。笑う人は他人から笑われるということを肝に銘じておいた方がいい。笑いたいなら権力そのものを笑えばいい。
もうひとつ、SF業界に根強く残っている悪癖は「謝罪しない」ということです。私はこれでもデビューしていくらか人生経験を積み、自分が悪かったと思うことには謝罪できる心を持てるようになってきました。私は菊池さんに対して、自分が行き過ぎた言葉を過去に述べたことについては頭を下げて謝っています。しかし菊池さんはどうでしょう。他人が謝ることでまだ勝ち負けを決めているのでは。汚い言葉を自分で使っていたと感じたときは、お互いにこれからは謝ることにしませんか。

菊池さんたちの主張で、以前から私がどうしても了承できないのは、実験についての考え方。
このあたりにまとめられている話ですが、菊池さんや田崎氏と私では「科学者」というものに対する考え方が違うためにこの違和感が生じています。
田崎晴明「「水からの伝言」を信じないでください」のうち、「「水からの伝言」が事実でないというためには、実験で確かめなくてはいけないのでは?
本書では36ページ。

菊池 『水からの伝言』については長い長い議論があるんです。反証が必要か、必要でないかというだけで、ものすごい長い議論がある。僕らは、あそこまででたらめな話に反証は不要だという立場です。(中略)『水からの伝言』って、科学的な主張の体をなしていないんですよ。だから、反証しようにも、何をすれば反証になるのか実はよくわからない。
香山 大規模な実験をやってなんて、ばかばかしいと思われるんでしょうね。(中略)
菊池 もちろんそれに納得しない人はいますよ。やはり反証してこそ科学ではないかって。『水からの伝言』を信じているわけではなく、自分は科学の側だと思っている人のなかにもそういう人はいる。
香山 一〇万個でも、一万個でもビーカーに「ありがとう」と貼って、全部いい結晶にならなかったと反証する。でも、そういうことをすると、じゃあ一万一個目はなるかもしれないという議論になりかねない。
菊池 もともと歩留まりの悪い実験なんです、あれは。(中略)歩留まりの悪さをうまいこと利用していて、だからああいう話ができるわけ。

この部分はかなりあざといですね。先手先手を打っている印象。だからこそ微妙に引っ掛かります。
まず、これには長い経緯があるんだから素人が思いつきで意見を述べるのは危険だよ、と相手を牽制している。科学の体をなしていないものに科学的な反証しても意味がない、というのはそのとおりだけれど、ではその他のグレーゾーンにどう立ち向かえばいいのか、という問題に本書は回答を与えていない。一〇万個のビーカーについては、香山さんが統計学の手法をあえて無視し、架空の反論をでっちあげていて問題があります。

私たちが世界と初めて向かい合うときのことを思い出してみましょう。不思議だなと思ったとき、私たちは実験して確かめたいと思う。菊池さんだってかつてはUFOにはまったと本書のなかで語っています。まず興味を持つとき、私たちはその対象がニセ科学かどうかなんてわからないわけです。だからこそいろいろ調べたり、実験したりする。その過程で科学を学んでゆく。

だからいくら水の結晶の話が非科学的でも、ふしぎだなと思って実験したいと願う人が出てきたら、その人をきちんとサポートできる社会が必要なのだと私は強く思うのです。その過程で科学を学んでゆけばいい。
もし自分の子どもが実験したいといい始めたら? 私はその子の好奇心を伸ばしてあげたいと思う。どうすれば実験できるか、いっしょに考えてあげたいと思う。「ありがとう」とそのまま紙を貼る実験はつまらないよ、きみは本当にその実験をやってみたいのかい? と私は質問するかもしれない。でも代わりに、きみの好奇心を満足させるこんな実験ならおもしろいよと提案するかもしれない。水の結晶の実験は難しい? ならばどんな実験系なら本質を変えずに実行できるのか考えればいい。ごはんが腐るか腐らないかでやってみてもいい。いくつのサンプルが必要だろうか? 条件はどうすれば一定になるだろうか? どういう検定をすればいいだろうか? そして、ではどんなものなら本当に影響を与えるのだろうか? これを読んでいる科学者のあなたでさえ、きちんとした実験系をすぐにはいえないと思う。統計学の本をひっくり返して、勉強し直さないといけない。これこそ実験科学の第一歩だ。苦労してやっても、思い通りの結果にならないかもしれない。自分が信じていたことを、実験結果は残酷にも否定する。それを受け入れる強さも必要だ。さて、その次はどうすればいいのか? 実験系そのものがダメなのか、それとも自分の手さばきの問題なのか? 文献をどうやって調べればいいのか? 実験のコツをつかむにはどうすればいいのか? どういう実験が本当におもしろいのか? そのセンスを磨くには? こういう経験を一つずつ積み上げてゆくことこそ、なにより科学の面白さであるはず。反証する意味がないという話ではなく、わたしがここでいっているのは実験をしたいというきっかけは何であれ大切にしなければならないということ。
生き残るためのルールとして、そんなことに長く関わるな、ということは重要でしょう。子どもに「ストーブに近寄ってはいけない」ときつく叱ることは大切。その意味で「こんなこと実験するまでもない」ということは問題ないでしょう。しかし私は、そこから先の眼差しが大切だと思うので、「水の結晶と心の働きについて実験したい」ともし自分に質問されたら別の答え方をしたい。その人の実験力を伸ばすようなアドバイスをしてあげたい。「ほとんどの読者のみなさんが(そして、「水からの伝言」の実験をしている人たちが)科学者ではないからです」とはいいたくない。

むろん全員が全員、科学の面白さにすぐ目覚めるとは思いません。そもそも実験したいと思うような子は、『水からの伝言』なんかに引っ掛からないって? まあそうかもしれないですね。
それでも。
私たちが物事を信頼してゆくためには、実験しかない。
と私は思うのです。
実験結果は、私たちにおかしな信念を植えつけることがあります。しかし同時に、おかしな信念をひっぺがす力もある。かつて科学者が生命の自然発生説を信じていたのはなぜか。パストゥールの『自然発生説の検討』に詳細に書いてあります。かつての科学者が信心深かったからではない。彼らもまた科学の精神に忠実な実験科学者でした。ちゃんと科学的にフラスコを密封して、そこからやはり生命が湧いてくることを実験で見て、それによって自然発生説を主張していたわけです。彼らは残念ながらわずかに注意不足で、完璧に密封したと思っても空気中の細菌が入る余地を残してしまっていた。パストゥールは彼らの論文を丹念に読み、細菌が入りそうなところを徹底的に見直して、見事な実証実験をして、生命が湧いて出ないことを証明しました。この教訓はまでも有効です。
いま私たちが常識と思っていることも、今後は実験によって覆される可能性が大いにあります。だからこそ、私たちは実験手技を学び、実験によって自分の信念を見直し続けてゆく必要がありますよね。私たちが本当に学ばなければならないのは、実験の大切さです。
『水からの伝言』は常識以前の問題だろうって? いや、私がいまいいたいのは、そういうことではありません。

水の結晶なら、自分の生活と直接の関係はないでしょう。しかし重要なのは、私たちが常にそういったものと無関係でいることはできない、という事実なのです。
なぜこれらとの対峙方法を知っておく必要があるのでしょうか。それは地球上に棲む私たちは、誰もが多かれ少なかれ科学者であるからです。私は男で、日本人で、仙台在住で、作家です。それぞれの属性をいつも少しずつ持っているように、同時に私はいつだってちょっぴり科学者なのです。私だけでなく地球上すべての人がそうなのだと思います。
ですから私たちは、日常のどこかで科学者としてのふるまいを要求されます。

そのとき科学者であるためには何を身につけていなければならないか。つまりそれが「実験力」なのだと思うのです。それは自分で実験を組み立て、実行できる能力であり、そこには論理的思考、無駄を省ける合理性、職人的なカン、手先の器用さ、鋭い観察力などが求められます。すべてを習得するのはとても大変ですから、私たちは小学校から大学院までひたすら勉強を続けるのです。実験力が身についてはじめて他人の実験の善し悪しがわかるようになります。相手が狭い業界のテーゼに縛られているということが見抜けるようになります。

たとえば、現在進行中の健康科学に対してどう向き合えばいいか、ということは、このウェブページにも書かれています。
健康情報の信頼性を見分けるには
おそらく多くのリベラルな科学者は、この考え方を身につけていることでしょう。自分の専門外のことは趨勢を見守るしかない。自分にとりあえず関係のないことは、こうするのが理性ある大人の対応でしょう。「レスベラトロール? ふーん、まあ今後の実験結果を待ちましょう」で、さほど問題はない。
しかし私たちは誰もが科学者です。だから人生の中でどこかで当事者になる。ニセ科学についていちばん難しい問題はここです。
まずは職業科学者の日常について考えてみましょう。科学者は常に切っ先の研究をしています。そこで日々得られる実験結果は、まだ世界中の誰も知らないことです。自分がはたして実験に騙されているのか、それとも新しい真実をつかみかけているのか、本人でさえわからないのがふつうです。常識とはかけ離れた結果が出ることだってあります。そのとき私たちはどうすればいいのでしょうか? 実験力を鍛えて、その実験結果をとりあえず信頼するしかありません。
もしあなたの上司が飽和水素水の研究を始めたらどうしますか。あなたはきっぱりと「それはニセ科学です」といいますか。いや、その上司が出してくる実験結果はどれも明快で、見事なものばかりです。あなたは騙されかかっているのでしょうか。上司はその成果の一部を「Nature medicine」にも載せました。「Natureは金儲けに走ることがあるから信用できない」って? それはそれで偏見ですよね。もしあなたが別の研究室の人間なら、とりあえず放置して、無視しておくこともできるでしょう。しかしあなたはもはや飽和水素水の研究室の一員なのです。あなたはどうしますか?
この件については、私も『ミトコンドリアのちから』の中で、慎重に文章を綴りました。当事者になってしまったら、私たちは自分で実験し、その結果を見据えてゆくしかない。自分で実験できないなら、自らの「実験力」という心のタフネスを駆使して目の前の結果を吟味しなければならない。会社の圧力で実験結果をねじ曲げてマイナスイオン商品を売らなければならなかった、などのケースなら、他人に責任を押しつけられるので話は単純です。でも本当に難しいのは、自分でさえいま目の前で起こっていることが真実なのか間違いなのかわからないときなのです。いまあなたが判断を求められているときなのです。実験結果があなたの常識に揺さぶりを掛け、生命は湧いて出るのか、決して自然発生しないのか、わからないときです。そういうとき「私は科学者ではありません」という逃げは通用しません。
そう考えると、私たちは日常の中でも科学者としての眼差しが必要であることがわかります。たとえば、あなたはテレビの健康番組を見て、とあるサプリメントを飲み始めました。なんだか体がこのところ軽くなったようです。あなたはそのサプリメントに効果があると思いますか? 
ここではさらに問題が複雑化します。あなたの目的は、健康を取り戻すということです。結果的に健康になったのなら、それでとりあえずはいいでしょう。「あのサプリはよかったよ」と人にお勧めすることもいいでしょう。そういう話、飲み会では盛り上がります。しかしそこにどれだけの根拠があるのか、自分で見定めておく必要はあるでしょう。ここでも実験力が重要になります。自分に効いたと思う根拠をどこまで見積もるか。他人に勧める根拠をどこまで見積もるか。それはあなたの実験力がどれだけ鍛えられているかにかかってきます。人から勧められて自分はどう判断するかということも、同じく実験力にかかってきます。この実験力はあなたの社会的知能にも直結するでしょう。これはしんどいことです。タフであることが必要だろうと思います。しかし「あなたは科学者じゃないんだから、取り敢えずこう考えておきなさい」といってしまうと、大切なことが取りこぼされてしまう。私はだからあえて、すべての人が科学者であり、当事者であるという立場を採りたい。

そしてもうひとつ。大切なことがあります。なぜそもそもこの実験をするのか? なぜこの実験が必要なのか? そういうことを考える力も、また実験力だろうと思います。「ありがとう」と紙で貼って水の結晶をつくってみる実験はばかばかしい、と思えるようになるには、なぜ自分はこの実験をするのか、それが語れるように成長してゆくことが必要となります。最初からそんな能力を持っている人はいません。学習して、身につけてゆくものです。だからこそ私は実験する芽を摘んではいけないと思います。
いま学会に行けば、たくさんの人が発表しています。でもどれだけの人が、自分の研究の意義を本当に語れるでしょう?

いまの大学院教育が大変なのは、このようなことををきちんと教育できない忙しさにあります。実験の基礎力は、大学院で学ぶしかない。するとそれだけで精一杯になってしまって、自分がそもそもこういう研究をするのはどうなんだろう、という本質まで行けない。
私は最近よく、「二枚目がかっこいい研究者になろう」と呼びかけています。学会で発表するとき、スライドの一枚目はタイトルと名前と所属。二枚目が研究の背景です。しかし多くの学生は、ここをなおざりにする。先輩からスライドをもらってきて、「こんなふうに適当にいっておけばいいよ」と教わってしまう。教授のいっていることをそのまま鵜呑みにしてしまう。二枚目は適当にお茶を濁して、「まあそういうことになっているんだから察してよ」となあなあにして、早く三枚目の実験内容に話を移したい。そういう風潮があるから、オープンキャンパスや学会会場で、二枚目のスライドについてつっこむと多くの学生はしどろもどろになります。助教さんや准教授さんでさえ、ここができない人がいる。何を質問されているのか分からないという顔をする人さえいる。
でもね、研究で本当に大切なのは、二枚目のスライドを豊かに語ることだと思うのです。本当は二枚目のスライドだけで1時間くらい語れるバックグラウンドがほしい。大学院はそういうことを身につける場だと思うのに、実際はそれができていない。

作家だって同じ。本当にかっこいい作家になること。それを目指さないで、何がエンターテインメント作家なのか?
看護師、薬剤師、私はそういう人たちと話す機会も多いのですが、私がこういった分野に以前から希望を見出しているのは、ここに21世紀の科学があると思うからです。私の共著作『境界知のダイナミズム』は、こういった「現場の科学者」たちにやはりもっとも読まれているようです。

本書の終盤は、やたらとマーケティングの話をしています。
マーケティングは、まあやったほうがいいでしょうが、正直なところ自分自身でそのへんに深く足を突っ込もうとは思わないかな。マーケティングは結局のところ、本書の著者らが悩んでいる二分法の話になってしまうから。
いまは10年前と比べると、科学に接する機会はとても増えてきました。サイエンスカフェはどこでも隆盛です。マーケティングが成功した例でしょう。でもそれが科学普及だとはあまり思わないな。自分でイベントを企画することもありますが、私はでんじろうさんのようにはなれないし、そのへんは適材適所でいいんじゃないか。私は自分でできること、自分で重要だと思うことをやっています。
ただひとつ自らを律していることがあります。それは、科学コミュニケーション業界の論理にはまらないこと。科学コミュニケーションが大切だという人たちが集まると(他の分野でも同様だが)、やはりそこには業界の枠ができてしまう。彼らだけの正義感や常識ができてしまう。
本書で語り合っているふたりの著者は、いまそういった枠組みに取り込まれてしまうなかで、自分をどうすればいいのか悩んでいるのではないかな。そこが彼らにとって「信じる」と「信じぬ」の揺れなのではないかな。
早くも31ページで菊池さんは述べている。「「どれがウソで、どれが本当かもっと教えてほしい」と言われるんです。だけど、それを言ったって、言われたものについて、ああウソなんだとか、本当なんだって思うだけじゃないかという、そんな無力感があります。結論だけあればいい」その後に述べられた言葉に力はない。「僕らがずっと言い続けているのは、答えだけじゃだめだよという話なんです」

むろんこういう本を一冊つくっておかないと、つぎに進めないというのもわかる。迷いをそのまま出しておかないと、つきものが落ちないというか。
でもその上で思う、せめてこういう本では、そこへの希望や意思表明をふたりで出してほしかった。難しいことをあえて承知で語ってほしかった。憂いて終わってほしくなかった。
次は拙速な本ではなく、「救い」とは何であるのかを本当に語ってほしい。著者ふたりに対して、切にそう思います。

*追記(2008.3.16)著者のおひとりである菊池誠さんからコメントをいただきました。ありがとうございます。
「信じぬ者」と瀬名さんとパライブの頃
こちらの記憶でつけくわえることがあるとすれば、
・「多くの読者」と書かれているが、当時擬人化を問題視していたのは全体の読者からすると一部であって、多数派ではなかった印象。だからかえって目立って見えた。
・そういった「擬人化しちゃ(SF/ホラー小説として)だめじゃん」という当時の御意見の中には、「擬人化しちゃ(科学者として)だめじゃん」「(人間として)だめじゃん」などのように、著者への人格批判に拡大してしまうものもあった。そういう背景があったので、菊池さんたちと意見交換した。
ということですね。「科学とは何か」についてはぜひいつかお話してみたいと思います。
「科学を伝える」という点では、菊池さんには昨年ならびに本年の日本SF大会でお世話になっています。以前に比べると、ときにはちゃんとSFの中に入って発信することも大切だと思うようになってきました。このような心境の変化は、菊池さんとのやりとりのおかげです。心から感謝しています。

追記(2008.4.2) 皆様、多くのご意見をありがとうございました。これは定型文ではなく、貴重なお言葉に心から感謝をしています。私自身、多くの発見と反省、またそれを踏まえての新しい思いがありました。あとは今後の作品や作家活動でお答えすべきことだと感じましたので、ここでコメント欄を閉じさせていただきます。
最後に私から後日、きくちさんに対してはお返事を書き込みますのでお待ちいただければ幸いです。

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March 12, 2008

伊勢神宮ひとり歩き―神の森のヴィジュアルガイドブック

以前、伊勢神宮の近くに親戚の家がある教え子のところへおじゃましたとき、お薦めされた本。その翌日、教え子たちと伊勢神宮の外宮さんと内宮さんに行って、教え子の佇まいが美しくて感銘を受けたのだった。
神宮の基本がわかる、素晴らしい本だと思う。写真もふんだんに盛り込まれており、神宮の澄んだ空気が伝わってくるだけでなく、説明の文章もわかりやすい。神嘗祭や式年遷宮、参拝作法など、私のようにふつうに生きていてふつうに忘れてしまっていることや、ふつうに知らずにいたことがきちんと記されている。冒頭に掲載されている「悩んだら、神社に心を預けよう」というエッセイもいい。お薦めの一冊。

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March 11, 2008

青空を歩く本 (GIFT BOOKS)

以前に紹介した『楽しい気象観察図鑑』の人による、ごく小さなギフトブック。
パイロット訓練をするようになってから、空の写真集をいろいろ買ってみたけれど、うん、この人の本がやっぱりいちばん好きだ。
なにげない空を写しているようだが、その後ろにたぶん何千枚という写真があって、その中から選びに選び抜いたものが掲載されていることが感じ取れる。ごく普通の空が写っているのに、著者の眼差しがはっきりと感じ取れて、この空を美しいと思っている著者の感情まで伝わってくる。お薦め。

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«メアリー・アニングの冒険 恐竜学をひらいた女化石屋 (朝日選書)